86話
力雄と天手力男神は、土俵の上で水入りをする前と同じ状態に組み、行事の掛け声を待つ。
行事は、両者が組んだ形を確認し終えたようだ。
「はっけよい!」
掛け声と同時に、力雄の全身の筋肉が隆起したかのように膨らんだ。
その筋肉の膨らみ方と全身に浮かんだ血管から、水入りする前よりも渾身の力を込めているのが分かる。
「水入りする前に失った体力を踏まえて、短期決戦を選んだのでしょうね」
手水舎の見解を聞きながら、満景は視線を力雄から天手力男神へと移す。
天手力男神も、力雄の渾身の力に対抗するためか、その筋肉に力を入れている。
しかし、力雄に比べると、天手力男神には余裕がありそうに見える。
「力押しでは勝てないことは明白。勝つために変化をつけるのか、それとも力押しを続けるのか。見ものですね」
手水舎の、彼女のワクワクしている内心を感じさせる言葉。
その直後、天手力男神の立ち位置が、少しだけ後ろにずれた。
剛力無双の神ともいえる天手力男神を、ほんの少しだけとはいえど、押し退かした。
その事実に観客から歓声が上がった。
「「「おおー」」」
この歓声に背を押されたかのように、また一歩分、力雄が前に出る。
明確に土俵に刻まれた、両足がずり下がった跡。
これは力押しでも勝てるのではないか。そう、満景だけでなく、観客の誰もが期待したことだろう。
しかし力雄の奮闘は、ここまでだった。
力雄の全身の筋肉が、盛り上がった状態から普段の状態に戻っていく。それだけでなく、急に全身に滝のような汗をかき始めた。
「体力が底をついてしまったようですね」
手水舎の冷静な言葉の通り、力雄は息も絶え絶えの様子に変わっていた。
天手力男神は、力雄が体力を切らしたと見てか、ずいっと前に出てきた。
それだけで、力雄が必死に押し退かした分が帳消しになった。
そのまま天手力男神は、ずいずいと前にすり足を進ませる。
ずりずりと力雄が下がっていき、程なくして土俵際へ。
「「「ああー」」」
もう勝負は決したとみて、観客が残念がる声を上げる。
しかし力雄は、土俵際に踏みとどまるべく少ない体力を掻き集めたのだろう、ピタリと後退が止まる。よく観察すれば、力雄が土俵の俵にかけている片足だけ、筋肉の隆起が戻っていた。
ぐいぐいと天手力男神は押し込もうとするが、力雄はその片足だけで土俵を割るのを阻止している。
その頑張りに、観客の目が諦めから応援へと再び切り替わる。
「踏ん張れ―!」「耐えるんだー!」
応援に応えるように、力雄は全身から汗を流しながら耐え続ける。
膠着した状態が続き、時間が経っていく。
行事が「はっけよい」と声をかけつつ、土俵脇にいる水入りの時間を計測する係へ横目を向ける。計測係は、あと少しで二度目の水入りになる事を知らせるためか、軽い頷きを行事に返した。
行事は、いつ水入りが入ってもいいように、力雄と天手力男神に近寄った。
その行事の行動が見えていたのだろうか、ここで天手力男神の動きが変わった。
先ほどまでは押し出ししか狙っていなかったのに、急に力雄の回しを引き寄せたのだ。
力雄は、残る全ての体力を使って、土俵の俵で踏ん張っていた。
それは逆を返せば、それ以外の対処を削って、踏ん張りに全振りしていたともいえる。
そのため、天手力男神が急に投げを打ったことに、力雄は対処できなかった。
力雄の大人顔負けの大柄な体躯が、土俵の宙を舞った。そして、どしっと音を立てて、土俵に背中から倒れた。
行事の軍配が天手力男神を示すと、力雄は疲労困憊の様子で立ち上がると、土濡れになった背中を丸めるように一礼して土俵を下りた。
すると、この熱戦をほめたたえるように、観客から大拍手が起こった。
満景が横を見ると、手水舎も淑女らしい柔らかな拍手を送っていた。
「大健闘でしたわね。天手力男神が最後に投げを選んだのは、多久頭君の奮闘を称える他に、二度目の水入りを許しては力の神の面目が立たないとの判断からでしょう」
手水舎が評した言葉に、満景は同意する。
「力雄は体力が切れても頑張ったんだ。それで認めないのなら嘘だよね」
力雄の奮戦による興奮も冷めやらぬ中、次の挑戦者である幕内力士が土俵にあがる。
しかし力雄が奮戦したことで、天手力男神の本気度が上がったようで、見どころなく瞬間決着してしまった。
その後の挑戦者も次々に敗れていき、おおとりである、大関の力昇岩との対戦が残るだけとなった。




