80話
ギヤマンが天手力男神の顔面を殴った。
その認識が土俵の周囲に広まった瞬間、あたりの空気が一変した。
祭りで浮かれ調子だった雰囲気が、一気に咎人を責めるような空気に変わった。
「罰当たりな」
観客の誰かが呟いた声が、満景の耳に届いた。
その観客の気持ちは理解できる。
なにせ、この伊角神社は地元に根ざして存続してきた神社で、天手力男神はそんな神社の祭神だ。
その祭神の顔面を殴るということは、この土地の歴史に拳を振り下ろすも同然だ。
この祭りに参加する多くの地元民にとって、受け入れがたい事に違いない。
そんな中で唯一の救いは、ギヤマンが相撲という競技を忘れず、拳ではなく平手で天手力男神を殴ったことだろう。
平手の打撃――突っ張りは、相撲の技術の一つ。それぐらいは、相撲に親しみがない満景でも知っているほどの、常識的な知識。
常識的な知識だからこそ、観客たちもギヤマンの行動を咎める視線を向けはしても、口々に非難を発することはしていないのだろう。
満景がそんな予想をしている間に、ギヤマンは次の動きに入っていた。
「おらおら!」
右の突っ張りが終わったら、即座に左の突っ張り。左が終われば、右。右、左、右、左。怒涛の運連続突っ張りだ。
それも、相手を土俵の外に追い出すのではなく、ノックアウトで土俵に鎮めるタイプの殴り方をしている。
「ふっ。不良だから、ツッパリを選んだのでしょうね」
満景の横で観戦している手水舎が、鼻で笑いながら意見を口にした。
それに、小里が同調する。
「おお、上手いこと言ったね。ま、ギヤマンの性格考えたら、神様がなんぼのもんじゃー、って感じだろうけどねー」
「ああ、神様の顔を叩くなんて。それも、あんなに何発も」
若槻がはらはらと成り行きを見守っているが、彼女の背後の空間からは喜色に近い感情が発せられている。
どうやら若槻の守護神は、天手力男神が突っ張りで何度も殴られている姿を喜んでいるらしい。
この守護神の反応は、他の神が殴られている姿のことを喜んでいるのか、はたまた今後の展開に期待しての喜びなのか。
その真偽を確かめる間もなく、土俵での情勢が動いた。
天手力男神が顔面に突っ張りを食らいながら、前に出てきたのだ。あたかも、ギヤマンの突っ張りなど、痛くも痒くもないと言いたげに。
「この!」
ギヤマンは口惜しそうな声を吐きながら、一歩後ろの下がる。
打撃において、相手との間合いは重要だ。
十分に力がのる打撃の相対位置は限られている。
相手が近づいて来れば、その位置を保つためには、距離を取って調整しなければならない。
そのため天手力男神が前に進めば、ギヤマンはその都度後ろに距離を取るしかない。
天手力男神が進み、ギヤマンが下がるを繰り返せば、そこは場所が限られた土俵である。ギヤマンはあっさりと、土俵際に立つ状態になってしまう。
前には近づいてくる天手力男神。後ろは出れば負けの土俵際。
進退極まったギヤマンは、まだ打撃に固執していた。
「おりゃああ!」
いままでで一番の大声をあげて、ギヤマンは天手力男神の顔面の中央に向かって突っ張り――いや、掌底による打撃を放った。
天手力男神は、いままで顔面で受け止めていた攻撃を、ここで初めて首を傾けて避けた。
当たると思っていたギヤマンの身体が、自身が放った渾身の掌底の勢いに釣られる形で、前につんのめる。
天手力男神が更に動く。ギヤマンの伸びきった腕を両手で掴み、身体をぐるりと半回転。
腕を掴まれたギヤマンは、その回転運動に巻き込まれる形で振り回され、そしてハンマー投げのハンマーのように投げ飛ばされた。
ギヤマンの身体は、土俵の端から反対側の端を超えていき、土俵周りにいた観客に突っ込む形で土俵の外へと飛んでいった。
豪快な投げ技に、小里が笑い声を上げる。
「あはははっ。ギヤマンってば、神様に怒られてやんの! いい加減にしろって!」
爆笑する小里とは違い、手水舎と若槻は違う感想があるようだ。
「無礼者には、相応の対応があることがわかりましたね。祭りの場だからといって、ああして羽目を外し過ぎるのはいけません」
「優しく負けさせるわけにはいかないけれど、犬塚くんのように頑張りを称える土付けをするわけにはいかないから、ああして土俵の外に荒っぽく投げ飛ばしたんでしょうね」
ギヤマンの無様な負けっぷり。それを観客たちは見て溜飲が下がったのか、祭りの雰囲気は以前と同じに戻ったようだ。




