52話
満景は首にかかっている紐を引っ張り、破魔のネックレスを首から外した。
そしてネックレスにある浄化の水晶に歯を立てて傷を作ると、親指の皮を犬歯で噛み切った。
親指の傷から、ぷっくりと玉のような血が現れる。その血の玉を、浄化の水晶の傷に塗り込むようにして擦り付けた。
その行為を、鬼瓦先生と小里と手水舎が見て、それぞれ異なる反応を返していた。
鬼瓦先生は満景の行為の意味を探るような目で見て、小里は知らない知識を覚えるような顔をして、手水舎は早く切り札を使えと急かしたいという表情をしていた。
満景は、血で汚れた破魔のネックレスを持ち、それに呪力を込めながら呪文を唱える。
「エロイムエッサイム。我が師、秘された悪魔の殿下の名において問う。我が供するは、いま手にしている、血で穢れた聖具。これを欲っする悪魔よ来たれ。我が願いは、我が敵へ向かって一度だけ力を振るうことなり」
満景の呪文を聞いて、鬼瓦先生がギョッとした顔で制止しようとしてくる。
「悪魔召喚だなんて、何を考えてるんだ!」
満景は、だから危険な術だと言ったのにと半目を返しながら、呪文の閉めを口にする。
「エロイムエッサイム。我が取引に応じる悪魔よ来たれ」
鬼瓦先生が手を伸ばして儀式を止めようとしてくる。しかしその手は、満景に触れる前に、満景の周囲を取り巻いた不可視の力によって弾かれた。
鬼瓦先生が弾かれて後ろに下がる間に、何時の間にか満景の背後に誰かが立っていた。
それは、とても見すぼらしい姿をしていた。
素人が乱暴に短く切りそろえたような、乱れたざんばら紫髪。ボロボロの頭陀袋のような茶色い服。立って居られているのが不思議なほどに、血色の悪い痩せ細った体躯。身長は低く、まるで小学校低学年者のよう。
しかし、この存在が人間でないことは、頭のコメカミから上へと伸びた赤黒い角と、臀部から足元へと伸びる蜥蜴のような尻尾から分かる。
「……先に、貢物を寄越せ」
みすぼらしい悪魔らしき存在が発した声は、乾ききった声帯を振るわせているような、掠れて罅割れていた。
聞く者に不快さを感じさせる声に、鬼瓦先生、小里、手水舎がしかめっ面になる。
しかし満景だけは、初会合した相手にニコニコと笑いかけている。そして、手にある穢れた破魔のネックレスを渡した。
「これが僕が差し出せるものだけど。それで十分かな?」
「これで、いい。ひひっ。しょせん、こっちは、名もなき、最下級悪魔、だからな。対価は、十分だ」
最下級悪魔と名乗った存在は、穢れた破魔のネックレスを口に持っていくと、水晶と紐をまるごと飲み込んだ。
すると、最下級悪魔の血色が、ほんの少しだけ良くなったように見えた。
そして次に発する声も、ひび割れが薄れていた。
「お前の敵は何だ。契約通り、一度だけ、力を振るってやる」
「あのデカい悪霊だよ。詰まらない相手で悪いけどさ」
満景が指す方に目を向けて、最下級悪魔はうんざりした顔になる。
「あれに、力を使えと? 相手にとって、不足に過ぎるのだが?」
「僕もそう思うんだけど、そこの人にやれって言われちゃってね」
満景は、対処してやるという約束を利用し、鬼瓦先生に全責任を被せた。
最下級悪魔は、胡乱な目を鬼瓦先生に向けると、やる気を失った態度で顔を巨大な悪霊に向けなおした。
「対価に、釣り合ってねえ、詰まんねえ仕事だ。だが、契約は、悪魔にとって、絶対だ」
最下級悪魔は、気の乗らない仕事を始めるような、やる気のない態度のまま、全身から力を溢れさせた。
悪魔の力は、人間が持つ呪力に似ているが、根本的に違っている雰囲気を持っていた。
悪魔の力が持つ雰囲気は、流行り風邪の病人で満杯になっている病院の空気に感じるような、不穏な破滅さに満ちている。誰かのために役立つ力ではなく、なにかを害するためだけにある力であることが直感的に分かる。
「食べるのが、好きなら。悪魔の力、食ってみるがいい」
最下級悪魔は言葉を口にしながら、黒色と紫色が綯い交ぜになった色合いの球体を、巨大な悪霊の顔面に発射した。
悪霊は、ものを食べて力に変える自分の能力に自信があるのか、顔に飛んできた黒と紫の球体に噛み付いた。
球体に歯型が生まれる。一秒経つ毎に、球体の大きさが減っていく。悪霊が間違いなく食べて飲み込んでいる。
そして悪霊は、食べた悪魔の力で成長して、身体が一回り大きくなる。
その様子を見て、A組の生徒たちから悲鳴が上がる。
「なんだよ、一体!」
「今まで以上に、危なくなってないか!?」
そんな風に焦る生徒たちの様子を、最下級悪魔は笑顔で見ている。
「ひひっ。人間が発する、負の感情が、悪魔の糧だ」
くつくつと笑う悪魔に、小里と手水舎が状況変化に心配する顔で巨大な悪霊へと目を向ける。
A組の生徒たちが見守る中、悪霊の大きさが、球体の大きさが減るに従って、どんどんと大きくなっていく。
悪魔が放った球体を全て食べ終えて、悪霊は小山ほどの大きさとなった。
醜悪な見た目の悪霊が更に大きくなったことに、生徒たちに再び恐怖感が生まれた。
「こ、こんなの、どうやって戦えってんだ」
「この巨体で襲われたら、ひとたまりもないじゃないか」
その場にへたり込む生徒が出てくる中、鬼瓦先生は舌打ちして自分のスマホを手にする。どうやら鬼瓦先生も一人で巨大化した悪霊に対処できないと感じて、他から応援を呼ぶ気になったのだろう。
だが、鬼瓦先生が実際に通話を始める前に、巨大化した悪霊に変化が現れる。
まず、悪霊の体外に出ている太い消化器官の一部が黒と紫の色に染まった。そして色が変わった部分が、ボロボロと崩れ始めた。
色の変化は消化器官だけでなく、手足や顔にも現れる。
色が変わった部分が崩れる。新たな場所に色が変わった部分が出現する。その部分が崩れ、また新しい場所に発生する。
変化の連鎖が続き、小山のように巨大だった悪霊が、急速に小さくなっていく。
その果てに悪霊は、顔にある口の一つだけを残して、全て崩壊した。
残った口も、歯の部分が黒と紫に変色し、ボロボロと崩れていき、そして全てが崩れて消滅した。
「これで、契約は終了だ」
最下級悪魔も、満景に向かって言葉を口にした直後、いつの間にか消え去っていた。




