噂の広がりと、底なしの過保護合戦
冬の冷え込みが本格的になり、王都の屋根瓦に薄く霜が降りるようになった頃、王宮の回廊には一つの奇妙な噂が駆け巡っていた。
あの厳格で融通の利かない王室監察官バルトロ伯爵が、長年の持病であった極度の胃痛を一夜にして治癒され、平民の喫茶室を「奇跡の聖域」と涙ながらに賛美したというのだ。
さらに、国を動かす三大巨頭――冷徹な宰相レオナルド、歴戦の騎士団長ジークハルト、そして気まぐれな天才王弟カミルが、毎日のようにその小さな店へ通い詰めているという真実が露見した。
「一体どんな絶世の美女なのか」「宮廷に招いて専属の薬師にすべきではないか」と浮き足立つ貴族たちが色めき立ったのも束の間、彼らの野心は光の速さで圧殺された。
三大巨頭が即座に手を組み、王宮の全貴族に向けて「『緑の天幕亭』およびその店主リリアナに対し、事前の許可なく接触を図った者は重罪とみなす」という前代未聞の共同声明を叩きつけたからである。
そんな王宮の大騒動など露知らず、当のリリアナは、開店前の店内で目を白黒させていた。
「……あ、あの、皆さん? これは一体どういう状況なのでしょうか……?」
カウンターの前に並んでいるのは、いつもの三人。だが、持ち込まれた品々の物量が、いつもと桁違いだった。
まず前に進み出たレオナルドが、優雅な仕草で羊皮紙の束を広げた。
濃紺の上質な外套を脱ぎ、リリアナの前に膝をつくようにして目線を合わせる。
「リリアナ、王宮の無粋な連中が君を煩わせないよう、この一帯を公爵家の直轄保護区として登記したよ。
それからこれは、南方諸国から取り寄せた最高品質の薬草茶葉と、君が欲しがっていた最高級の蜂蜜の無期限独占納入契約書だ。
君が茶を淹れるために必要なものは、全て私が用意する」
「ほ、保護区!? 独占契約書……!? そ、そんな大層なもの、平民の店主が受け取れるわけありません!」
「いいや、受け取ってほしい。君の穏やかな時間を守るためなら、公爵家の権力など安いものだ」
レオナルドは銀の瞳を甘く細め、リリアナの細い指先をすくい上げて手の甲に熱い吐息を落とした。
公爵としての威厳など微塵も残さず、ただ一人の男としてリリアナを崇めるような眼差しに、心臓が跳ね上がる。
そこへ、ジークハルトが割り込んできた。
彼は背後に控えていた無骨な大荷物をどんと床に置いた。
「書類だけでは無防備だ。リリアナ、近衛騎士団の非番の者たちから選りすぐりの精鋭を、この路地裏の常駐警備として配置した。もちろん、私自身も可能な限りここに詰める」
「えっ、団長自らですか!?」
「当たり前だ。君に不届き者が近づくなど、想像しただけで腸が煮えくり返る。……それに、これを受け取ってくれ」
ジークハルトが差し出したのは、頑丈な鉄でできた最新型の調理用オーブンと、彼自らが薪割りをした乾燥薪の山だった。
「君の小さな手で重い薪を割る必要はない。力仕事も、君の安全も、全てこの私が生涯をかけて守り抜く」
琥珀色の瞳をまっすぐに向け、ジークハルトはリリアナの肩を大きな掌でそっと抱き寄せた。
無骨な騎士の言葉には嘘偽りがなく、熱い体温が衣服越しにじんわりと伝わってくる。
「二人ともずるい! 権力と筋肉でごり押しするなんて野蛮すぎるよ!」
ぷくっと頬を膨らませて二人の間に割って入ったのは、カミルだった。
彼はリリアナの腕にすがりつくと、誇らしげに青い水晶のペンダントをリリアナの首へと掛けた。
「お姉さん、これ僕が昨晩徹夜で作った『超高精度悪意遮断ペンダント』だよ! 君に邪な視線を向ける人間が半径十メートル以内に近づくだけで、相手の足元に局所的な落とし穴が生成されるの!」
「落とし穴!? そ、それは危なすぎますカミルさん!」
「危なくないよ、怪我はしないように綿のクッションが出る設定にしてあるもん。
それからね、お店の椅子も全部、座るだけで日頃の疲れと魔力枯渇が吹き飛ぶ魔法具に改造しておいたから! だからお姉さん、僕を一番に褒めて?」
カミルはリリアナの胸元に顔を埋め、子猫のようにすりすりと甘えてくる。
天才魔導士の面影などどこにもない、ひたすら愛を乞う無防備な姿に、リリアナは思わず毒気を抜かれてしまう。
「もう……三人とも、本当に過保護が過ぎます」
リリアナは困ったように息をつきながらも、カミルの柔らかな金髪を優しく撫で、ジークハルトの逞しい腕に手を添え、そしてレオナルドの銀の瞳を見つめ返した。
前世では、誰かに守られることなど一度もなかった。
理不尽な要求にも一人で頭を下げ、壊れそうな心身を抱えて満員電車に揺られていた。
それが今では、国で最も尊い立場にいるはずの男たちが、自分ひとりの安らぎを守るために地位も名誉も惜しみなく差し出し、子供のように甘えてくるのだ。
「皆さんの温かいお気持ちは、本当に嬉しいです。でも、私が一番望んでいるのは、皆さんがここで肩書を忘れて、ゆっくり息を抜いてくださることなんですよ」
リリアナが微笑みながらそう告げると、男たちは一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くし、やがて全員が降参したように破顔した。
「……やはり、君には敵わないな」
レオナルドが深く息をついて笑い、リリアナの腰に手を回して引き寄せる。
「君の淹れる茶の前に立てば、公爵の位も宰相の重責も、すべてどうでもよくなってしまう」
「君が笑っていてくれるなら、私は何でもしよう。……ただ、少しだけでいい。私にも甘えてくれ」
ジークハルトが反対側からリリアナを包み込むように抱きしめ、広い胸板に彼女を閉じ込める。
「僕も! 僕も一生お姉さんに甘えるから、お姉さんも僕を一生手放しちゃダメだからね!」
カミルが二人の隙間からリリアナの首筋に腕を回し、愛おしそうに頬を寄せてくる。
三者三様の熱い体温と甘やかな独占欲に包み込まれ、リリアナの顔は耳の先まで真っ赤に染まった。
厨房からは、じっくりと温めたチャイのスパイスと、焼きたてのスコーンの香ばしい匂いが漂っている。
外の寒風など微塵も届かない小さな茶房で、雲の上の殿方たちからの底なしの溺愛に包まれながら、リリアナは胸いっぱいの幸福を噛み締めていた。




