嵐の監察官と、揺るがぬ聖域
冬の足音が間近に迫る、曇り空の午後だった。
仕込みを終えた店内は静まり返り、薪ストーブのパチパチと爆ぜる音だけが心地よく響いている。
奥の丸テーブルでは、公務の合間を縫って抜け出してきたレオナルドが書類に目を通し、その隣でジークハルトが無骨な手つきでリリアナの割れた薪を整え、カミルはソファで丸くなってすやすやと寝息を立てていた。
いつもの、甘やかで穏やかな日常の風景。
だが、その平穏を切り裂くように、扉の呼び鈴が乱暴に打ち鳴らされた。
カランカラン、と激しい金属音が響き、現れたのは豪奢な銀の刺繍が施された宮廷服に身を包んだ男だった。
神経質そうに吊り上がった眉、尖った顎、そして平民の店を見下すような冷たい眼差し。
その後ろには、武装した護衛の衛兵が二人控えている。
「ここが、噂の『緑の天幕亭』か。薄汚れた路地裏の店だな」
王室監察官の任を負うバルトロ伯爵だった。
王国の重鎮たちが揃って平民の小さな茶房に通い詰めているという噂を耳にし、妖しげな薬で殿方たちを惑わす不届きな平民女がいるに違いないと、抜き打ちの査察に乗り込んできたのだ。
奥の席にいる三人は、仕切り用の布カーテンに隠れてまだ見えていない。
バルトロはカウンターに歩み寄ると、エプロン姿のリリアナを鋭い眼光で値踏みするように睨みつけた。
「貴様が店主のリリアナだな。平民の分際で、身の程を弁えず雲の上の貴人たちを誑かしているという密告があった。
もし怪しげな媚薬でも盛っているのなら、ただちに投獄し、この店を取り潰すことになるぞ」
刺々しい言葉が店内に響く。
普通の平民の娘であれば、貴族の威圧感に青ざめて泣き崩れてもおかしくない場面だった。
けれど、リリアナは微動だにしなかった。
前世で無茶苦茶なクレーマーや理不尽な取引先を相手にし続けてきた彼女の目は、相手の罵倒ではなく、その首筋の浮き出た青筋や、浅い呼吸、そして胃を押さえるような不自然な仕草へと向けられていた。
(……この人、胃痛が限界まできているわね。神経質で、真面目すぎて、胃酸過多になっている顔だわ)
リリアナは怯えるどころか、困った人を気遣うような柔らかな微笑みを浮かべた。
「ご苦労様です、監察官様。外は底冷えするでしょう。お調べいただくのは構いませんが、まずは冷えたお身体を温めてください」
厨房から手早く取り出されたのは、陶器の白いマグカップだった。
胃粘膜を優しく保護するマローブルーと、神経性の胃痛を和らげるペパーミント、そして冷えた内臓を温める乾燥レモングラスをブレンドした琥珀色のお茶。そこへ、胃に優しいアカシアの蜂蜜を一さじ溶かしてある。
「な、何を呑気なことを……毒味もせぬ平民の茶など、口にできるか!」
バルトロが苛立たしげにカップを払いのけようと手を上げた――その瞬間だった。
「――その無礼な手を、今すぐ引っ込めろ」
奥のカーテンが音もなく開かれ、空間そのものを氷結させるかのような、底冷えのする低い声が響き渡った。
「ひっ……!?」
現れたのは、書類を手にしたまま怜悧な眼光を放つ筆頭宰相レオナルドだった。
銀の瞳には、かつて戦時下で反逆者を断罪した時ですら浮かべたことのない、底知れぬ怒りの焔が宿っている。
「れ、レオナルド公爵閣下……!? なぜこのような場所に……」
「私の問いに答えろ、バルトロ。貴様、誰に向かって手を上げようとした」
レオナルドが一歩踏み出すだけで、張り詰めた重圧が部屋を満たす。
さらに、その後ろから巨躯の影が音もなく割り込んできた。
ジークハルトが帯剣した腰の柄に手をかけ、野獣のような琥珀色の瞳でバルトロを射竦める。
「我が近衛騎士団が総力を挙げて守護しているこの店で、暴言を吐くとはいい度胸だな。
……貴様のその無礼な腕、二度と動かせぬようにへし折ってやろうか」
「ぎ、近衛騎士団長まで……!?」
さらには、あくびを噛み殺しながらソファから起き上がったカミルが、青い瞳に冷酷な魔力の光をちらつかせながら指先を鳴らした。
「うるさいなぁ、せっかくお姉さんの匂いに包まれていい夢を見てたのに。ねぇ、監察官さんだっけ? 僕の最愛のお姉さんに指一本でも触れたら、君の一族ごと異空間に消し飛ばしてあげるけど、試してみる?」
「カ、カミル王弟殿下……っ!?」
王国の最高権力者三人が、揃って平民の娘の後ろに立ち塞がり、まるで世界の至宝を守るかのように過保護なまでの殺気で自分を睨みつけている。
あり得ない光景に、バルトロは腰を抜かしてその場にへたり込みそうになった。
「閣下、殿下、これは誤解でございます! 私はただ、皆様が不届き者に騙されていないかと……!」
「不届き者は貴様だ」
レオナルドが冷ややかに言い捨て、リリアナの肩を引き寄せるように抱き寄せた。
「リリアナの淹れる茶は、国のいかなる至宝よりも尊い。彼女を侮辱することは、私と、騎士団と、魔導院の全てを敵に回すことと同義だと知れ」
圧倒的な溺愛の盾。だが、息を呑むバルトロの前に、リリアナがそっと割って入った。
「皆さん、落ち着いてください。お客様を脅かすのはいけません」
「しかし、リリアナ……!」
ジークハルトが心配そうに眉を寄せるが、リリアナは首を横に振ると、湯気を立てるカップを両手で持ち、青ざめるバルトロの前にしゃがみ込んだ。
「監察官様。お役目柄、周囲に気を張り巡らせて、常に胃が痛むほどお辛いのでしょう。一口だけでも含んでみてください。怪しいものは何も入っていませんから」
澄んだ瞳で見つめられ、拒む気力を失ったバルトロはおずおずとカップを受け取り、一口喉へと流し込んだ。
瞬間、ミントの清涼感とレモングラスの爽やかな香りが鼻を抜け、蜂蜜のまろやかな甘みが、キリキリと痛んでいた胃の壁を優しく包み込んでいく。
過度のストレスで強張っていた頭の芯が、嘘のようにじんわりと解けていった。
「……あ……胃の痛みが、引いていく……?」
「頑張りすぎると、身体が先に悲鳴を上げてしまいますから。お茶を飲んで、少し深呼吸してくださいね」
身分を誇示して責め立てた自分に対し、怨嗟どころか純粋な労わりを向けてくれる平民の娘。
バルトロは自分の狭量さを恥じ入るように頭を垂れ、震える声で呟いた。
「……申し訳、ございませんでした……。私の非礼を、どうかお許しください……」
衛兵たちに支えられ、嵐のように去っていった監察官を見送った後、店内には再び静けさが戻った。
リリアナがほっと息をついた瞬間、背後から三つの強い腕が一斉に伸びてきた。
「リリアナ、怖かっただろう。すまない、私の配下が無礼を働いて……」
レオナルドがリリアナを後ろから抱きしめ、首筋に額を埋めて震える声で囁く。
「私がついていながら、あのような輩に暴言を吐かせてしまった。……一生をかけて君を守る」
ジークハルトがリリアナの震えてもいない両手を大きな掌で包み込み、誓うように口づけを落とす。
「もうお城になんか帰らない! ずっとここでお姉さんの専属護衛になるんだから!」
カミルが正面からリリアナの腰にしがみつき、涙目の青い瞳で訴えかけてくる。
「も、もう皆さん、大袈裟ですってば……! 私は全然平気ですから!」
身分の差など物ともせず、むしろそれを力づくでねじ伏せて自分を囲い込もうとする殿方たちの、重すぎるほどの愛情。
困り果てて赤面するリリアナの心臓は、寒空の下でも止まらないほど熱く、甘やかな熱気に包まれていた。




