国王陛下の密やかな来訪と、聖域の勅許
大雪から数日が過ぎ、下町の通りには雪かきを終えた職人たちの威勢のいい声が戻っていた。
軒先には氷柱が陽光を受けてきらめき、凍てつく空気の中にも、どこか冬の峠を越えたような清々しさが漂っている。
昼下がりの『緑の天幕亭』は、ちょうど客足が途切れた穏やかな時間帯だった。
リリアナは厨房のカウンターで、冬の冷え込みで縮こまった呼吸を深く広げるための新作茶――薄荷とタイム、そして乾燥させた林檎の皮とカルダモンを調合した茶葉を、硝子瓶へと移し替えていた。
カラン、とドアベルが静かに鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げたリリアナは、入ってきた客の佇まいに、思わず息を呑んだ。
深い灰色のウール外套のフードを外したのは、仕立ての良すぎる衣服を身に纏い、整えられた髭に威厳を湛えた初老の紳士だった。
鋭くも深い慈愛をたたえた紺碧の瞳――それは、カミルの瞳の色と驚くほどよく似ていた。
紳士の背後には、護衛とおぼしき無駄のない身のこなしの従者が二人、気配を殺して控えている。
「ふむ……ここが、我が国の英傑どもを骨抜きにしているという噂の茶房か」
低く、王者の風格を隠しきれない重厚な声が店内に響いた。
その瞬間、厨房の裏口が跳ね上がるような勢いで開かれ、続いて青い光の粒子が店内に弾けた。
「陛下……! お忍びとはいえ、このような下町の路地裏にまで直々に足を運ばれるとは」
青ざめた表情で現れたレオナルドが、即座にリリアナを背後に庇うように立ち塞がる。その銀の瞳には、かつてないほどの鋭い警戒が宿っていた。
「兄上! ダメだよ、お姉さんを怖がらせないで!」
カミルが転移と同時にリリアナの前に両手を広げて立ちはだかり、威嚇するように実の兄である国王を睨みつける。
「陛下。御身の安全はもちろんですが……彼女に無礼な真似をなさるなら、たとえ主君であっても見過ごすわけにはいきません」
黒い隊服姿のジークハルトが音もなく踏み込み、大剣の柄に手をかけたまま、リリアナの横に鉄壁の壁を作った。
三者三様の、国家元首に対してすら牙を剥かんばかりの過保護な包囲網。
国王――現国王オルフェウスは、呆気にとられたように瞬きをし、やがて腹の底から楽しげな笑い声を漏らした。
「ははは! 筆頭宰相に近衛騎士団長、果ては我が愛弟まで揃いも揃って……。まるで凶暴な竜の巣に迷い込んだ気分だな。
よせ、余はただ、茶を一杯飲みに来ただけの老人だ。娘を害するつもりなど毛頭ない」
王の言葉に、リリアナはレオナルドの背中からそっと顔を出し、静かに一礼した。
「……国王陛下。狭い店でございますが、どうぞ暖炉のお近くの席へお掛けください」
「リリアナ、無理に応対する必要はないよ」
レオナルドが耳元で案じるように囁いたが、リリアナは柔らかく首を横に振った。
前世の記憶がふと頭をよぎる。
理不尽なトップの視察に怯え、粗相のないよう震えながらお茶出しをさせられていたあの日々。
だが、今の彼女の前には、命を賭して守ってくれる三人の男たちがいる。恐れるものなど何一つなかった。
リリアナは丁寧に湯を沸かし、国王の前に白磁のカップを運んだ。
淹れたのは、身体の奥底から疲労熱を穏やかに逃がし、精神を鎮める『冬木立ちの安らぎ茶』
カモミールとリンデンをベースに、ほんの少しのシナモンと、下町の蜂蜜を溶かし込んである。
「どうぞ。王宮での激務でお疲れでしょうから、まずは一口、お召し上がりください」
国王は湯気を吸い込み、一口ゆっくりと喉へと流し込んだ。
その瞬間、厳格だった国王の眉間の深い皺が、ふわりとほどけていく。
「……なるほどな」
国王は深く息を吐き、カップを見つめた。
「ただ美味いだけではない。張り詰めた神経の結び目が、無理なく解かれていくような……不思議な温もりだ。
この下町の人々が、そしてこの男たちが、なぜこれほどまでに君の元へ帰りたがるのか、一口で理解できたよ」
国王はカップを置くと、穏やかな眼差しでリリアナを見つめた。
「貴族院の古狸どもが、君を宮廷の茶会に引っ張り出そうと騒ぎ立てていた。だが、宰相が不正を暴いて黙らせ、騎士団長が武力で圧力をかけ、カミルが魔力で恫喝する始末だ。
……余としても、どのような稀代の傾国の美女かと思って見に来たのだが」
国王は愉快そうに髭を撫でる。
「傾国どころか、荒れ狂う猛獣どもを飼いならす、希代の聖女ではないか」
「兄上、お姉さんを変な名前で呼ばないで!」
カミルが抗議の声を上げるのを、国王は片手で制し、従者から一巻の豪奢な羊皮紙を受け取った。
「リリアナとやら。余から君に、勅許を与えよう」
広げられた羊皮紙には、国王の真紅の蝋印とともに、厳かな金の文字が刻まれていた。
『王都下町・緑の天幕亭を、国王直轄の不可侵指定区域と認む。いかなる貴族院、宮廷機関も、店主の意に反する召喚、接収、干渉を永久に禁ず』
「これは……」
リリアナが息を呑むと、国王は満足げに頷いた。
「宰相も騎士団長も弟も、君がいなければまともに動かん。
ならば、君が最も心安らぐこの場所を、王家の名において永久に守護するのが国の利益というものだ。
……君は何も気に病むことなく、この路地裏で、好きなように茶を淹れ続けなさい」
身分差による理不尽な引き裂きも、貴族社会からの圧力も、国家の最高権力によって完全に無力化された瞬間だった。
「……陛下、身に余る光栄でございます。心より感謝申し上げます」
リリアナが深く頭を下げると、背後に控えていた三人の表情から、張り詰めていたすべての緊張が消え去り、至福の安堵と歓喜が広がった。
国王がお忍びの外套を翻して店を去った後、閂が下ろされた静かな店内で、リリアナの身体は一瞬にして三人の腕の中に閉じ込められた。
「リリアナ……! よくやってくれた」
レオナルドがリリアナを強く抱き寄せ、その首筋に熱い吐息を落とす。
「これで、君を脅かすものはこの国に何一つなくなった。君の自由も、この店も、完全に守り抜かれたのだ」
「私の剣も、これで心置きなく君だけのために振るえる」
ジークハルトが大きな腕でリリアナの腰をすくい上げ、自らの胸板へと隙間なく抱きすくめた。琥珀色の瞳には、熱狂的な情愛が揺らめいている。
「お姉さん、やったね! もう誰もお姉さんを奪えないよ!」
カミルが胸元に飛びつき、リリアナの首に回した腕を離そうとしない。
「ずっと、ずっと僕たちだけのものなんだから!」
前世で、組織の都合で使い捨てられ、誰も盾になってくれなかった孤独な日々。
それが今、国王の勅令という絶対の盾を得て、世界で最も気高い三人の男たちに囲まれ、自分の居場所を完璧に手に入れたのだ。
暖炉の火が赤々と燃え盛る中、三者三様の熱い体温と惜しみない愛の囁きに包まれながら、リリアナは胸いっぱいに広がる幸福の涙を拭い、愛しい殿方たちの腕の中で甘やかに微笑むのだった。




