雪解けの兆しと、癒やされた心の居場所
軒先に下がっていた氷柱の先から、ポツリ、ポツリと透明な雫が落ち、石畳をリズミカルに濡らし始めていた。
街を覆い尽くしていた豪雪は日ごとに嵩を減らし、吹き抜ける風の冷たさの中にも、どこか湿り気を帯びた柔らかな土の息吹が混ざり始めている。
長く厳しい冬が終わりを告げ、王都に初春の足音が近づいていた。
『緑の天幕亭』の厨房では、春の目覚めを告げる爽快で清らかな香りがふわりと立ち上っていた。
「うん……とても澄んだ綺麗な香り」
リリアナは硝子のポットを見つめ、淡い黄緑色に色づくお茶に優しく目を細めた。
冬の間に体内に溜まった老廃物を流し、春の身体へと目覚めさせるためのデトックスハーブティー
――春告げ草とも呼ばれるネトルとダンデライオン(西洋タンポポの葉)をベースに、爽快なレモンマートルと甘いエルダーフラワーをブレンドした『雪解けの芽吹き茶』だ。
作業台の上には、雪の下で甘みを蓄えていた早春のイチゴとルバーブをじっくり煮詰めた甘酸っぱいジャムと、焼きたての香ばしいスコーンが並んでいる。
前世の記憶が、春の陽光に透ける塵のように、静かに脳裏をよぎった。
冬から春へと季節が変わる頃といえば、年度末の決算と組織改編の嵐だった。
終わらない残業、冷え切った夜のオフィスで一人キーボードを叩き、誰も褒めてくれない成果のために身体をすり減らしていた日々。
「春が来れば少しは楽になるだろうか」と淡い期待を抱いては、新年度の新たな重圧に押し潰されていた孤独な自分。
(あの頃の私は、季節が巡ることすら怖かった……)
けれど、今のリリアナの心には、恐れも不安も一欠片も残っていなかった。
国王の勅許という絶対の盾に守られ、下町の人々に愛され、そして何より――命を賭して自分を慈しんでくれる三人の男たちが、常にこの小さな店を満たしてくれているのだから。
「お姉さん! 見て見て、春を見つけてきたよ!」
ふわりと舞い散る淡い光の粒子とともに、カミルが裏庭から飛び込んできた。
その手には、雪解けの黒土の中から顔を出したばかりの、可憐な白いスノードロップの小花が握られていた。
カミルはリリアナの前に膝をつくと、まるで騎士が姫に忠誠を捧げるように、その小さな花をリリアナの胸元へと差し出した。
「お店の裏の雪だまりの下に、一輪だけ咲いてたの! 一番にお姉さんに見せたくて、摘んできちゃった!」
「まあ……可愛い。ありがとう、カミルさん」
リリアナが微笑んで花を受け取ると、カミルはパッと青い瞳を輝かせ、そのままリリアナの腰にすっぽりと抱きついてきた。
「えへへ、お姉さんの笑顔が見られたら、冬の寒さなんて全部吹き飛んじゃうよ」
「カミル、朝から一人で抜け駆けとは感心しないな」
勝手口から入ってきたのは、黒い隊服の上着を肩に引っかけ、腕まくりをしたジークハルトだった。
店先の屋根に残っていた重い残雪をすべて下ろし終えたばかりの彼は、鍛え抜かれた肉体から湯気のような熱気を立ち上らせている。
「ジークハルトさん、お疲れ様でした。雪下ろし、大変だったでしょう」
「これしきの力仕事、朝の素振りにもならん。……それより、リリアナ」
ジークハルトは無骨な大きな手を伸ばすと、リリアナの細い腰を軽々と抱き上げ、カウンターの上にちょこんと腰掛けさせた。
「きゃっ……!?」
「手先が少し冷えているな。……外の作業で火照った私の体温を分けてやる」
ジークハルトはリリアナの両手を自らの分厚く熱い胸板へと押し当て、琥珀色の瞳を熱く濡らしながら至近距離で見つめてきた。
ドクドクと力強く脈打つ騎士の鼓動が、掌を通してリリアナの芯まで響いてくる。
「ジークハルト、彼女が驚いているだろう」
表の扉が静かに開き、薄手の濃紺の春コートを優雅に脱ぎながら、レオナルドが入ってきた。
銀の瞳を甘く細めた筆頭宰相は、迷うことなくリリアナの元へ歩み寄ると、彼女の髪に優しく指を滑り込ませた。
「おはよう、リリアナ。雪解けの雫よりも清らかで美しいね」
レオナルドはジークハルトの腕の隙間からリリアナの手首をすくい取り、脈打つ場所へと甘美な口づけを落とした。
「王宮の登庁前に、どうしても君の顔が見たくなってね。……君の淹れてくれるこのお茶の香りを吸い込むだけで、今日一日のすべての煩わしさに耐える力が湧いてくるよ」
三者三様の熱い体温と、尽きることのない情愛の波。
かつてのリリアナなら、「私なんかのために申し訳ない」「平民の分際で甘えてはいけない」と、どこかで遠慮し、身を引こうとしていただろう。
けれど、いまのリリアナの心には、そんな迷いは微塵もなかった。
彼らの差し出してくれる愛の重さを、ただ無条件に信じ、両手を広げて受け止める強さが、この冬の間に育まれていたのだ。
リリアナはカウンターの上から、そっと三人の顔を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「皆さん、私……この冬を越えて、本当によく分かったんです」
「ん……? 何がだい、リリアナ」
レオナルドが銀の瞳を瞬かせる。
「私、もう遠慮するのをやめました。皆さんが私を甘やかしてくださるのと同じくらい、私も皆さんに甘えて、この場所でずっと笑っていたいんです。
……私の心も、このお店も、全部皆さんの帰る場所ですから」
素直に紡ぎ出された、揺るぎない受容と愛の言葉。
その言葉を聞いた瞬間、三人の男たちの表情が、息を呑むような激しい歓喜と情熱に染まった。
「……あぁ、リリアナ」
レオナルドが掠れた吐息を漏らし、耐えかねたようにリリアナの額へと深く唇を押し当てた。
「君がそう言ってくれる日を、どれほど待ち侘びていたか。……もう絶対に、君を離さないよ」
「君がすべてを受け入れてくれるなら、私の全存在を君に捧げよう」
ジークハルトが太い腕でリリアナの身体を抱きすくめ、骨がきしむほどの強さで自らの胸へと閉じ込めた。
「お姉さん、だーいすき! これからもずーっと、僕たちに目一杯甘やかされてね!」
カミルが背後からリリアナの首筋に腕を回し、蕩けるような甘い声を耳元に落とす。
逃げ場のない、けれど世界で最も安全であたたかい腕の中。
リリアナの胸の奥底で凍りついていた過去の孤独は、完全に春の光の中に溶け去っていた。
軒先から落ちる雪解け水の音と、芽吹きのハーブティーが放つ爽快な芳香。
小さな路地裏の店先で、四人の結んだ絆は揺るぎない確信へと変わり、やがて訪れる新しい春への扉が、穏やかに開かれようとしていた。




