大雪の日の籠城と、閉ざされた店の親密な時間
朝、目を覚ましたリリアナを包んでいたのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。
階下の厨房へ降り、厚手のカーテンをそっとめくったリリアナは、思わず息を呑んだ。
窓の外は、視界のすべてが白銀に塗り込められていた。
一晩中降り続いた大雪は、路地裏の石畳を膝上まで埋め尽くし、扉の外には分厚い雪の壁がそびえ立っている。
馬車はもちろん、下町の人々の往来すら完全に途絶えた、数十年に一度の豪雪だった。
(こんな大雪……前世でも一度あったっけ)
記憶の底から、冷え切った都会の冬が蘇る。
雪で麻痺した環状線、何時間も駅の入場規制の列に並ばされ、ずぶ濡れのパンプスで凍傷寸前になりながらオフィスへと向かった朝。
誰もが苛立ち、足を踏まれて舌打ちされ、「這ってでも来い」と言われて出社したあの孤独な悪夢。
けれど、いま彼女の背後から漂ってきたのは、香ばしい薪の爆ぜる音と、甘く濃厚な煮込み料理の匂いだった。
「起きてきたね、リリアナ。冷え込んでいるから、暖炉のそばへおいで」
カウンターの奥から現れたレオナルドは、いつもの隙のない正装ではなく、柔らかなカシミアの濃紺カーディガンを羽織った寛いだ姿だった。
銀の瞳を柔らかく細め、自ら淹れた湯気立つハーブティーを彼女の手へと包み込ませる。
「レオさん……お城の執務はよろしいのですか? この大雪では……」
「国政の緊急連絡なら、カミルの魔導通信機で処理を済ませてあるよ。
登庁などするはずがないだろう。
……この雪だ、私の世界はすべてこの店の中に閉じ込められている」
「そう言うことだ。近衛の緊急警備体制も副団長に全権を委ねてきた」
勝手口から腕いっぱいに薪を抱えて入ってきたジークハルトが、豪快に暖炉へと木をくべた。
彼もまた甲冑を外し、体に沿った黒のリブニットという軽装だ。
鍛え抜かれた肉体の輪郭が露わになり、暖炉の火照りを帯びて琥珀色の瞳を熱く輝かせている。
「王都中が完全に麻痺している。今日ばかりは、誰一人として君の店を邪魔することはできん。……完全に、私たちの城だ」
「お姉さーん! おはよー!」
カミルが寝癖のついた金髪を揺らしながら二階から駆け下りてきて、迷わずリリアナの腰にすっぽりと抱きついてきた。
「外はマイナス五度だけど、僕がお店の外周に二重の保温結界を張ったから、中は春みたいにあったかいよ! 今日はお店もお休みだし、一日中ずーっとお姉さんとくっついてられるね!」
外の世界が完全に遮断された、小さな路地裏の店。
世間の義務も、身分の壁も、訪れる客すらもいない。ただ愛しい四人きりだけの、贅沢極まりない籠城生活が始まった。
厨房の中央でコトコトと煮立っていたのは、ジークハルトが朝一番で仕込んでくれた『牛肉と冬根菜の赤ワイン煮込み』だった。
大ぶりの牛肉がホロホロに解けるまで煮込まれ、蕪と人参が甘みを凝縮させている。
リリアナが加えたローリエとタイム、そして少量の柑橘の皮が、濃厚なシチューに清涼な奥行きを与えていた。
暖炉の前に広げられた白く分厚い毛皮の敷物の上に、四人で並んで腰を下ろす。
「あーんして、リリアナ。君に重い皿を持たせる気はないよ」
レオナルドが銀のスプーンで柔らかく煮崩れた牛肉をすくい、フーフーと息を吹きかけて唇へ運んでくれる。
口に含むと、ワインの深いコクと肉の旨味が舌の上でとろけ、身体の奥底からポカポカとした熱気が満ちていった。
「美味いか? 寒さで体力が落ちないよう、滋養のつく香草を多めに入れておいた」
ジークハルトが満足げに目を細めると、リリアナの素足を自らの逞しい太ももの上へと引き上げ、毛布の上から大きな掌でゆっくりと揉みほぐし始める。
「お姉さん、僕にも一口ちょーだい! お姉さんの食べたあとのスプーンがいい!」
カミルがリリアナの首筋に腕を回し、胸元にすりすりと額を押し当てながら甘えた声を上げる。
窓を叩く吹き荒れる吹雪の音。
けれど、その冷たい風の音さえも、この部屋に満ちる温もりを際立たせるための演出にすぎない。
前世で、寒さに凍えながら誰の温もりにも触れられず、「早くこの冬が終わればいいのに」と泣いていた自分。
あの過酷だった冬の日々が、今、三者三様の熱い体温と惜しみない情愛によって、完全に甘美な幸福へと塗り替えられていく。
「……こんなに幸せで、罰が当たらないかしら」
リリアナがぽつりと零すと、レオナルドが愛おしさに目を細め、彼女の指先へ熱い口づけを落とした。
「罰など当たるものか。君がこれまで一人で耐えてきた寒さの代償を、私たちが贅沢に支払っているだけだよ」
「君がここにいてくれるなら、世界が雪に閉ざされたままでも構わない」
ジークハルトの低く掠れた声が、耳朶を熱く震わせる。
「ずっとずっと、僕たちの中に閉じ込めててあげるからね」
カミルが胸元で愛らしく囁き、離さない強さでぎゅっと抱きしめ直してくる。
外の猛吹雪が世界を白く染め上げる中、暖炉の炎が四人の重なり合う影を優しく揺らめかせる。
誰の手も届かない小さな温もりの中で、リリアナは胸いっぱいに広がる幸福感に身を委ね、甘く蕩けるような冬の時間を深く味わうのだった。




