初雪の気配と、四人で灯す暖炉のぬくもり
王都の空が夕暮れの紫から底冷えする濃紺へと沈みゆく頃、窓の外を舞う風の音に、微かな湿り気と凍てつくような冷気が混ざり始めた。
街路樹の葉はすっかり落ちきり、道行く人々は分厚い外套の襟を立てて足早に家路を急いでいる。
今夜にも、初雪が舞い降りてくるかもしれない――そんな冬の訪れの予感に満ちた夜だった。
営業を終えて閂を下ろした『緑の天幕亭』の店内は、外の刺すような寒さとは対照的に、黄金色のあたたかな光と甘美なスパイスの芳香に満たされていた。
「うん……よく香りが立ってきたわ」
リリアナは木べらで小鍋をゆっくりとかき混ぜ、ふわりと立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込んだ。
今夜仕込んでいたのは、極寒の夜を乗り切るための特製『林檎と柑橘の温熱モルドハーブティー』だ。
角切りにした林檎と橙の薄切りを、乾燥させたエルダーフラワーとリンデン、そして身体の芯を燃やすように温めるシナモンスティック、スターアニス、クローブとともにじっくり煮出したもの。
最後に濃厚な野花蜜をたっぷりと溶かし込めば、砂糖漬けにした果実の凝縮した甘みと、鼻腔をくすぐるエキゾチックな芳香が溶け合い、一口啜るだけで胃の腑から手足の先までポカポカとした熱が行き渡る。
パチ、と暖炉の中で白樺の薪が心地よい音を立てて爆ぜた。
ジークハルトが焚いてくれた上質な薪の炎が、レオナルドが敷き詰めてくれた毛足の長い純白の絨毯を赤々と照らし、カミルの魔導ヒーターが部屋の隅々に至るまで春の木漏れ日のような快適な暖気を行き渡らせている。
前世での冬の記憶が、ふと胸の奥に灯った蝋燭のように揺らめいた。
冷え切った六畳一間のアパート。
電気代を気にして暖房をギリギリまでつけず、薄い毛布を何枚も被って寒さに震えていた夜。
誰の帰りも待っていない真っ暗な部屋の鍵を開け、凍える手でコンビニの冷たいお弁当をレンジで温めていた、あのどうしようもなく孤独だった冬。
(私……あの頃、本当に寒かったんだな……)
寒さは身体だけでなく、心まで凍りつかせていたのだと、今の温もりに包まれて初めて気づく。
物思いに沈み、知らずしらずのうちに自分の細い肩を抱きしめていたリリアナの身体を、背後から音もなく伸びてきた逞しい両腕が、すっぽりと包み込んだ。
「何を怯えている、リリアナ」
低く、けれど深い慈愛に満ちた掠れ声が耳朶を打つ。
振り返る間もなく、リリアナの身体は軽々と宙に浮き、暖炉の前の大きな安楽椅子へと運ばれた。
膝の上にすっぽりと収められた先には、黒い隊服を緩めたジークハルトの分厚い胸板があった。
「指先がまた冷えている。……過去の寒さに意識を奪われていたのか?」
ジークハルトは琥珀色の瞳を痛ましげに細めると、リリアナの両手を自らの大きな両手ですっぽりと包み込み、熱い吐息を吹きかけながら丁寧に揉みほぐした。
戦場で数多の敵を両断してきた無敵の豪腕が、まるで世界で最も脆い宝物を扱うかのように震えている。
「ジークハルトさん……大丈夫ですよ、ただ、昔の寒い夜を思い出していただけで……」
「二度と思い出す必要はない」
ジークハルトはリリアナの額に己の無骨な額をこつんと押し当て、低く力強く囁いた。
「君を凍えさせるいかなる過去も、私がこの胸の熱で焼き尽くしてやる。君の温もりは、一生私が守り抜く」
「ジークハルトばかりに格好をつけさせるわけにはいかないよ」
優雅な衣擦れの音とともに、レオナルドが椅子の傍らに跪いた。
濃紺のシャツの袖を捲り、銀の瞳を妖しいほど熱く濡らした筆頭宰相は、リリアナの足元に敷かれた絨毯の上に膝をつくと、彼女の爪先を自らの手のひらですくい上げた。
「レオさん……!? 閣下がそんな、床に膝をつくだなんて……!」
「君の前で、地位など何の価値もないと言ったはずだ」
レオナルドは優しく微笑むと、リリアナの足首を愛おしそうに撫で上げ、自らの太ももの上へと乗せた。
「君の凍えた過去のすべてを、私に教えてほしい。君が一人で耐えてきた寒さの数だけ、私が贅沢な愛と温もりで上書きしてみせる。
……リリアナ、君の未来の冬は、すべて私たちで埋め尽くされているのだから」
レオナルドの長い指がリリアナの膝から手元へと滑り、その華奢な指先を絡め取って、手の甲へ、そして手首の内側の脈打つ場所へ、深く熱い口づけを落とした。
「僕も! 僕もいるんだからね!」
耐えかねたように、カミルが安楽椅子の隙間へと強引に割り込んできた。
金髪を揺らした少年は、ジークハルトの膝の上に座るリリアナの首筋にすっぽりと両腕を回し、その胸元に顔を埋めてぎゅうぎゅうと抱きついてくる。
「お姉さんは僕の太陽なんだよ! お姉さんが寒い思いをするなんて、世界の法則が間違ってる! ほら、僕のあったかい魔力、ぜーんぶお姉さんにあげるから!」
カミルの身体から、心地よい春風のような柔らかな熱がじんわりとリリアナの全身へと注ぎ込まれていく。
「僕、絶対に離れないからね。寝る時も、朝起きる時も、ずっとお姉さんにくっついて湯たんぽになってあげるんだから!」
ジークハルトの岩のように逞しい胸板に抱かれ、レオナルドの知的な熱情に指先を奪われ、カミルの無邪気で純粋なぬくもりに胸元を埋め尽くされる。
三者三様の熱い体温と、尽きることのない狂おしいほどの愛の波。
逃げ場のない、けれどあまりにも甘やかな包囲網の中で、リリアナの胸の奥底で凍りついていた過去の澱が、跡形もなく融解していくのを感じていた。
「皆さん……本当に、あったかいです……」
リリアナの目元から、ぽろりと一筋の涙が零れ落ちた。
悲しみや寂しさの涙ではない。
孤独だった魂が完全に救われ、愛されている実感に満たされた、あたたかな幸福の雫だった。
レオナルドがその涙を指先でそっとすくい取り、自らの唇で受け止めた。
ジークハルトが大きな腕でリリアナをさらにきつく抱き寄せ、その髪に唇を埋める。
カミルが胸元から顔を上げ、濡れたリリアナの頬にちゅっと音を立てて口づけを落とした。
「泣かないでおくれ、愛しい人。……さあ、君の淹れてくれた特別なお茶を、四人でいただこう」
レオナルドがテーブルから運んできてくれた四つの陶器のカップ。
中では、黄金色のモルドハーブティーがゆらゆらと湯気を立て、林檎とスパイスの芳醇な香気を放っている。
四人でカップを掲げ、一口ずつ喉を潤す。
甘酸っぱい果実のコクと、スパイスの心地よい刺激が胸の奥へと滑り落ち、身体の芯にぽうっと小さな暖炉が灯ったような熱が広がっていった。
「……美味いな。君の愛が、身体の隅々まで染み渡るようだ」
ジークハルトが目を細め、至福のため息を零す。
「君の傍にいるだけで、私は世界で最も満ち足りた男になれるよ」
レオナルドが銀の瞳を蕩けるように細め、リリアナの耳元に吐息を吹きかける。
「お姉さんのお茶、世界でいっちばん美味しい! ずっとずっと、四人でこうしていようね!」
カミルがリリアナの腕にすがりつき、満面の笑みを咲かせた。
ふと見上げた窓の向こう、静まり返った王都の夜空から、ひらひらと白い一片が舞い降りてきた。
街灯の光に照らされてきらめく、淡く可憐な初雪だった。
けれどもう、寒さに怯えることは何一つない。
この世界の頂点に立つ愛しい殿方たちに囲まれ、惜しみない情愛と熱狂的な守護に抱かれながら。
小さな路地裏の店先で、リリアナは胸いっぱいの幸福感とともに、世界で一番あたたかい冬の始まりを、穏やかに迎え入れるのだった。




