朝靄の大市と、過保護な殿方たちの買い出し
王都の木々がすっかり燃えるような赤と黄金に染まり、朝夕の冷え込みが肌を刺す季節となった。
この時期、王都の中央広場では秋の実りを祝う大市が立ち並ぶ。
近郊の農村から新鮮な果実や木の実、遠方の港町から珍しい香辛料や乾燥ハーブが集まるため、店で使う冬向けの仕込みをするには絶好の機会だった。
まだ朝露が残る早朝、リリアナは頑丈な麻の買い物籠を腕に通し、厚手のショールを羽織って裏口の鍵を回した。
「よし、今日は生姜とドライクランベリー、それからシナモンをたっぷり買い込まなきゃ」
前世での休日は、溜まった洗濯物を前にベッドから這い出ることすらできなかった。けれど今は違う。
自分で選んだ茶葉と果実で、訪れる人を笑顔にできる。
その喜びだけで、冷たい朝の空気すら心地よく感じられた。
ところが、路地へ一歩踏み出したところで、リリアナの足はぴたりと止まった。
朝霧が薄く漂う石畳の上に、見覚えがありすぎる長身の男性が、静かに佇んでいたからだ。
「おはよう、リリアナ。冷え込む朝だね」
フードを目深に被った濃紺の上質な外套。そこから覗く艶やかな髪と、氷を溶かしたように柔らかな銀色の瞳。
筆頭宰相レオナルドだった。公務用の馬車も護衛も連れず、ただ一人で立っている。
「レ、レオさん!? こんな朝早くに、どうされたんですか? お仕事は……」
「昨晩のうちに急ぎの決済はすべて片付けたよ。君が今日、冬支度のために大市へ行くと聞いてね。……荷物持ちに、雇ってはくれないだろうか」
ふっと眉尻を下げて微笑むその姿は、玉座の隣で冷徹に国政を裁く男と同一人物にはとても見えない。
差し出された手袋越しの手が、リリアナの腕からすっと買い物籠を引き取った。
「そんな、滅相もありません! 閣下に荷物持ちだなんて……」
「ここではただの『レオ』だと言ったはずだよ。君に甘い茶を淹れてもらうための、ささやかな前払いだと思ってほしい」
大人の余裕を漂わせる低く甘い声に、リリアナの心臓がトクンと跳ねる。
だが、その甘やかな空気を切り裂くように、重々しい足音が石畳を叩いた。
「――抜け駆けとは感心しませんな、宰相閣下」
路地の角から現れたのは、軍用の上着を羽織り、鋭い琥珀色の瞳を光らせたジークハルトだった。
非番であるはずなのに背筋は鋼のように伸び、その圧倒的な体躯は遠目からでも尋常ならざる存在感を放っている。
「ジークハルトさんまで!? 今日はお休みでは……」
「朝の鍛錬を終えたところだ。大市は近隣の領地からも人が集まるため、掏摸や酔客も多い。
……君のような無防備な女性を、男一人だけで護衛させるわけにはいかない」
大真面目な顔でそう告げると、ジークハルトはレオナルドの手からひょいと買い物籠を奪い取った。
「力仕事なら私の役目だ。閣下は書類仕事でお忙しい身だろう」
「……書類仕事だけでなく、身軽なエスコートもこなせる自負はあるのだがね、卿」
冷ややかな火花を散らす二人の間に、不意にパチンと乾いた指を鳴らす音が響いた。
「はいはい、二人ともストップ! 僕を置いていくなんて絶対に許さないんだからね!」
空間がふわりと歪んだかと思うと、転移魔法特有の青白い燐光とともに、金髪を揺らしたカミルが姿を現した。
仕立ての良いケープの襟元を正し、リリアナの前に滑り込むと、躊躇いもなくその細い腰に腕を回して抱きついてくる。
「お姉さん、おはよう! 寒いね、僕が温めてあげる」
「カ、カミルさん! 街中で突然転移してくるのはやめてくださいって、いつも言っているでしょう!」
「だって、置いていかれたら嫌だもん。僕が空間拡張を施した特製の収納袋を持ってきたよ。これならリンゴ百個でも重さゼロで運べるんだから!」
得意げに胸を張るカミルを引き剥がそうと、ジークハルトが太い眉を吊り上げ、レオナルドが額を押さえて深いため息をつく。
国を動かす中枢の男たちが、平民の買い出しの籠を巡って朝っぱらから張り合っている――あまりにも現実離れした光景に、リリアナは頭を抱えそうになった。
「……分かりましたから。皆さんで行きましょう。ただし、人前で派手な魔法を使ったり、喧嘩をしたりするのは絶対に禁止ですよ」
リリアナが念を押すように言い含めると、三人はまるで母親に言いつけを守る子供のように、神妙に頷いてみせた。
◇
朝靄が晴れた中央広場は、色とりどりの天幕が立ち並び、香ばしい焼き菓子の匂いやスパイスの芳香で溢れかえっていた。威勢のいい商人たちの掛け声と、買い物客の喧騒が響き渡る。
「わあ……今年の林檎は、一段と蜜が詰まっていそう」
露先に積まれた艶やかな真紅の果実にリリアナが目を輝かせると、すぐさま三人が動いた。
「店主、この木箱のものを全て包んでくれ」
「ま、待ってくださいジークハルトさん! そんなに使い切れません!」
「なら僕が研究所の冷蔵魔導具を貸してあげる。傷まないように魔法で鮮度を固定すれば――」
「カミル、彼女は旬の素材を自分の手で調理することを楽しんでいるんだ。野暮な提案は慎みなさい」
レオナルドが窘めつつ、懐から銀貨を取り出し、リリアナが選んだ適量の果実とスパイスをスマートに精算する。
その所作の一つひとつがあまりにも優雅で、露天商の女将がぽかんと見惚れてしまうほどだった。
人混みが激しさを増すにつれ、彼らの過保護さはさらに熱を帯びていった。
すれ違う荷車からリリアナを守るように、ジークハルトが壁のように立ち塞がって大きな体で庇い、その無骨な掌がリリアナの肩を抱き寄せる。
「怪我はないか? 離れるな、私の傍にいろ」
「だ、大丈夫です、ありがとうございます……」
逞しい胸板の温もりと微かな革の香りに顔を火照らせていると、反対側から伸びてきたレオナルドの指先が、解けかけていたリリアナのショールを優しく直した。
手袋を外した白く長い指先が、耳朶に触れる。
「人混みに酔ったのではないかい? ……無理をしてはいけないよ。君が倒れてしまったら、私は夜も眠れなくなってしまう」
真摯で熱い銀の瞳に見つめられ、息が詰まりそうになる。
さらに足元からは、カミルがリリアナの手をきゅっと握りしめてきた。
「お姉さん、あっちで焼き栗売ってる! 半分こしよう? 僕に食べさせてくれたら、もっと美味しいと思うんだ」
三者三様のやり方で注がれる、惜しみない情愛と庇護の温もり。
前世の自分がもしこの光景を見たら、きっと夢でも見ているのだと笑ったに違いない。
誰にも頼れず、一人で重い荷物を抱えて夜道を歩いていたあの頃の孤独が、彼らの体温によって、まるで雪解けのように跡形もなく消え去っていく。
買い出しの帰り道、西の空が淡い茜色に染まり始めた頃。
両手に紙袋を抱えたリリアナの隣を、肩を並べて歩く三つの影があった。
「今日手に入れたスパイスで、明日は体を温める特製のチャイを淹れますね。ジンジャーとクローブを効かせて、クッキーも焼きますから」
リリアナが微笑みかけると、男たちの表情が一斉に綻んだ。
「君の手料理なら、毎日でも食べたい」
「楽しみにしている。……必ず、朝一番に顔を出そう」
「やったぁ! 僕、お姉さんの隣の席を予約するからね!」
身分や肩書など何一つ関係のない、ただ穏やかで甘やかな時間。
冷え込む夕暮れの風の中、リリアナの胸の奥には、どんなハーブティーよりも温かい幸福感が、静かに満ち広がっていた。




