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王宮を抜け出した満月の夜と、小さな秘密の観月会

秋の夜気は澄み渡り、天の川を従えた巨大な黄金の満月が、王都の屋根瓦を白銀に照らし出していた。


今夜は、王宮の大庭園で貴族たちが着飾り、権謀術数と社交辞令の杯を交わす『秋の王宮観月茶会』の当日だった。


招待を断ったリリアナは、静まり返った『緑の天幕亭』の厨房で、オーブンから漂う甘く香ばしい秋の匂いに包まれていた。


(さすがに今夜は、三人とも城を抜け出すわけにはいかないわよね……)


筆頭宰相、近衛騎士団長、そして王弟。


国の最高中枢にいる三人が、国を挙げた観月茶会を欠席できるはずがない。


リリアナは一人きりの夜を過ごすつもりで、秋の味覚を詰め込んだ夜食を仕込んでいた。


天板の上で艶やかに焼き上がったのは、旬の紅玉林檎を丸ごと使った『焼き林檎のハーブ蜜仕立て』。


芯をくり抜いた林檎の空洞に、刻んだ渋皮つきの焼き栗、芳醇なレーズン、そして裏庭のローズマリーとシナモンスティックを詰め、発酵バターと百花蜜を乗せてじっくり焼き上げたものだ。


熱気とともに溢れ出した果汁と溶けたバターがキャラメル状に焦げ、甘美でスパイシーな香気を放っている。


傍らの小鍋では、リンデンとカモミールを煮出し、少量の温めたアップルサイダーと混ぜ合わせた、身体を芯から解きほぐすホットハーブドリンクが微かに湯気を立てていた。


前世での秋の夜が、ふと脳裏をよぎる。


オフィスビルの窓から、ビル風に震える満月を見下ろしながら打っていたキーボードの乾いた音。


日付が変わるまで終わらない残業、机の引き出しに転がっていた賞味期限切れの栄養バー。


「お月見なんて、子供の頃の遠い昔の行事だ」と、冷え切った指先を擦り合わせていた孤独な秋。


その時だった。


コト、と裏庭に面したテラスの硝子戸が、遠慮がちにノックされた。


「……えっ?」


驚いて駆け寄り、カーテンを開けたリリアナは、信じられない光景に息を呑んだ。


月光の下に立っていたのは、豪奢な宮廷正装を纏ったままの三人だったのだ。


濃紺のビロードに銀糸の刺繍が施された礼装姿のレオナルド。


金色のモールと勲章を胸に輝かせた白銀の儀礼軍服姿のジークハルト。


そして、星空のようにきらめく青絹のマントを羽織ったカミル。


「皆さん……!? どうしてここに……今夜はお城の茶会では!?」


リリアナが慌てて鍵を開けると、カミルがマントを翻して真っ先に飛び込んできた。


「お姉さーん! 会いたかった……! もう、退屈すぎて死ぬかと思ったよ!」


ぎゅうぎゅうとリリアナの腰に抱きつき、その胸元に金髪の頭をすり寄せて甘えてくる。


「形式的な乾杯と国王陛下への挨拶を済ませ、早々に退出してきたよ」


レオナルドが銀の瞳を甘く細め、優雅な足取りで室内へ入ってきた。


手袋を外した長い指先が、リリアナの頬へそっと触れる。


「偽りの笑顔と打算に満ちた宴席など、一秒たりとも耐えられなかった。

……今宵の月を共に眺める相手は、私の世界で君しかいないのだから」


「警備の最終指揮を副団長に引き継ぎ、馬を飛ばしてきた」


ジークハルトが背の高い身体を屈めて扉をくぐり、その大きな手でリリアナの小さな手をすっぽりと包み込んだ。


「君を一人で過ごさせる気など、最初から毛頭なかった。……寒くはなかったか?」


国の頂点に立つ男たちが、社交界最大の宴を放り出して、平民の小さな店先へと駆けつけてくれたのだ。


その規格外の熱情と過保護さに、リリアナの胸は甘い衝撃で激しく脈打った。


「もう……三人とも、本当に無茶ばかりなさるんですから。でも……すごく、嬉しいです」


リリアナが花が綻ぶように微笑むと、男たちの表情が一瞬にして息を呑むような熱に染まった。


「さあ、お姉さん! せっかくだからお外でお月見しよう!」


カミルが指先を振ると、裏庭の木製テラス全体に淡い琥珀色の温熱結界がふわりと展開された。


秋の冷たい夜風は遮断され、まるで春の木漏れ日の中にいるような心地よい暖気がテラスを満たす。


ジークハルトがリリアナの肩に、自らが羽織ってきた厚手の儀礼マントをふわりと掛け直した。


「夜気で身体を冷やしては困る」


ずしりとした重みと、歴戦の騎士の男らしい温もりがリリアナをすっぽりと包み込む。


テラスの丸テーブルの中央に、熱々の焼き林檎と、湯気を立てるホットハーブサイダーが運ばれた。


ナイフを入れると、とろりと柔らかくなった林檎の果肉から、黄金色の蜜とシナモン、そしてほくほくの栗が顔を覗かせる。


「どうぞ、皆さん。王宮の豪奢なお菓子には遠く及びませんけれど……」


フォークで切り分けられた熱い林檎を、レオナルドがリリアナの手から直接受け取って口に運んだ。


「……素晴らしいな。甘酸っぱい果汁の奥から、栗の香ばしさとハーブの清々しさが追いかけてくる。

王宮のどんな高価な菓子も、君が心を込めて焼いてくれたこの林檎の温もりには敵わない」


レオナルドは銀の瞳を熱く濡らし、リリアナの隣の席に腰を下ろすと、彼女の細い腰を自然な所作で引き寄せた。


「美味い……! 身体の芯まで熱が染み渡るようだ」


ジークハルトも大きく一口頬張り、琥珀色の瞳を震わせた。


「宮廷の冷え切った空気で強張っていた筋肉が、一瞬で解けていく。

……君の料理は、いつだって私の帰るべき場所だ」


ジークハルトはリリアナの足元に腰を下ろし、マントの裾から覗くリリアナの手を自らの太ももの上で優しく温め始めた。


「お姉さん、僕にもあーんして! 一番甘いシロップのところ!」


カミルがリリアナの膝の上に身を乗り出し、口を開けて甘えてくる。


一口食べさせると、カミルは満面の笑みを咲かせ、リリアナの首筋に両腕を回して抱きついて離さなくなった。


「んん~っ、幸せ……! お城を抜け出してきて本当によかった! 世界でいっちばん贅沢なお月見だね!」


見上げれば、雲ひとつない秋の夜空に、黄金色の満月が静かに輝いている。


かつて、冷え切ったオフィスで一人、誰にも見向きもされずに見上げていたあの月。


それが今、世界で最も気高く、最も強い男たちが、自分ひとりの笑顔を見るためだけに地位も名誉も投げ打って寄り添い、温かな腕の中で見上げている。


「リリアナ」


レオナルドの低く艶やかな囁きが耳朶を打った。


「君がこの店で私たちを待っていてくれる限り、私はどんな闇からも必ず君の元へ還ろう」


「私の剣も、私の命も、この満月に誓って君だけのものだ」


ジークハルトが無骨な掌に力を込め、誓うようにリリアナの指先へ唇を押し当てる。


「僕の全部をお姉さんにあげる! ずっとずっと、僕たちだけを見ててね」


カミルが胸元ですりすりと額を寄せ、熱い吐息を零す。


秋の夜長を照らす黄金の月光の下、温かなハーブと林檎の香りに包まれながら。


三者三様の尽きることのない情愛と重なり合う体温に抱かれて、リリアナは胸いっぱいに満ちる幸福感に瞳を潤ませ、愛しい殿方たちとともに、どこまでも穏やかで甘い夜を紡ぎ続けるのだった。

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