黄金色の無花果と、宮廷からの招待状
王都を吹き抜ける風から湿り気がすっかり抜け、からりと澄んだ初秋の青空が広がっていた。
日差しの温もりの中にも、朝夕には肌を撫でるひんやりとした涼気が混ざり始め、街路樹の葉先がほんのりと黄金色に染まりつつある。
『緑の天幕亭』の厨房では、香ばしいバターと甘やかなスパイスの香りがオーブンから立ち上っていた。
「うん、良い焼き色……。秋の訪れにちょうどいいわね」
天板を取り出したリリアナは、焼き上がったばかりの焼き菓子に目を細めた。
今朝の市で見つけた、完熟して割れ目から甘い蜜を覗かせていた黒無花果。
それを薄くスライスし、アーモンドプードルとカルダモン、シナモンをたっぷり練り込んだ生地に敷き詰めて焼き上げた『無花果と秋スパイスの焼きタルト』だ。
傍らの小鍋では、乾燥させたエルダーベリーとクローブ、そして少量のショウガをミルクで煮出した、身体の芯を温める特製のチャイティーが静かに湯気を立てている。
冷え込み始める秋の気候は、前世の記憶をふと呼び起こす。
クールビズが終わり、窮屈なジャケットに袖を通す頃になると、決まって社内の「秋の懇親会」や役員の接待ゴルフの幹事を押し付けられていた。
自分は一口も料理に手をつけられないまま、酒瓶を抱えてお酌に回り、愛想笑いで顔の筋肉を強張らせ、翌日は胃薬を流し込みながら出社していた苦い記憶。
(あの頃は、季節の変わり目なんて憂鬱でしかなかったけれど……)
そんな物思いを断ち切るように、店の引き戸が静かに開いた。
入ってきたレオナルドの表情は、いつもの穏やかな笑みを湛えつつも、その銀の瞳の奥には冷徹な警戒の光が宿っていた。
手には、金箔で縁取られた豪奢な羊皮紙の書簡が握られている。
「おはよう、リリアナ。……甘く芳しい香りに迎えられる朝は、いつだって私の心を救ってくれる」
「レオさん、おはようございます。
……そのお手紙、王宮からですか?」
リリアナが小首をかしげると、背後から重い足音が響き、ジークハルトが大股で入ってきた。
その琥珀色の瞳は、レオナルドの手にある書簡を射抜くように険しく細められている。
「閣下、やはり届いたのか」
「ああ。宮廷貴族院から、正式に『緑の天幕亭』の店主――リリアナ宛てに届いた『秋の王宮観月茶会』への特別招請状だ」
「茶会への招待……? 私に、ですか?」
目を丸くするリリアナの横から、ふわりと青い光の粒子とともにカミルが姿を現した。
「そんな紙切れ、僕が今すぐ灰にしてあげる!」
カミルが怒りを露わにして飛び出し、リリアナの前に立ちはだかるように両手を広げた。
「夕涼み市のことでお姉さんにちょっかいを出せなくなった貴族の古狸どもが、今度は『下町の奇跡の茶を王族に献上させよう』なんて名目で、お姉さんを宮廷の真ん中に引きずり出そうとしてるんだ!
品定めして、あわよくば自分の派閥に取り込もうっていう浅ましい魂胆に決まってる!」
「カミルの言う通りだ」
ジークハルトが低く唸り、鍛え抜かれた太い腕でリリアナの肩を抱き寄せた。
「貴族どもの陰湿な好奇の目に、君を晒す気など毛頭ない。
招請を断る口実なら、近衛騎士団の『防犯上の理由』として私が叩き返してやる。
君が一歩たりともあの伏魔殿に足を踏み入れる必要はない」
二人の気迫に圧倒されそうになる中、レオナルドが静かに歩み寄り、リリアナの正面へと立った。
彼はその豪奢な招待状をテーブルに置くと、手袋を外した長い指先で、リリアナの柔らかな手を優しくすくい取った。
「リリアナ、私はすでに手を打ってある。
茶会で提供するハーブの納入名義は我が公爵家と近衛騎士団の『特別共同調達』とし、君の名は表に出さないように手続きを済ませる準備がある。
だが――」
銀の瞳が、真摯にリリアナの瞳の奥を見つめる。
「君の意志を無視して決めるつもりはない。
もし、君自身が宮廷に興味を持ち、自分の腕を試してみたいと望むなら……
私はこの命と地位のすべてを賭けて、君を誰の非礼にも触れさせず、最高の名誉で包んでエスコートしよう。
君はどうしたいかい?」
三人の視線が、自分ひとりに注がれる。
前世での、断ることすら許されず、上層部の理不尽な要求に従わされるしかなかった日々の記憶。
誰の道具にもならず、自分の生きたい場所を自分で選ぶことなど、許されていなかった。
けれど、今ここにいる男たちは、国を動かす絶大な権力を持ちながら、一介の平民であるリリアナ自身の「心」を何よりも尊重してくれているのだ。
リリアナは胸の前に手を当て、穏やかに、けれど迷いのない声で答えた。
「……ありがとうございます、レオさん、ジークハルトさん、カミルさん。でも、私はお城の茶会へは行きません」
リリアナは店先の木製テーブルと、窓の外に広がる下町の路地裏を見渡した。
「私が淹れたいのは、誰かの権力争いのための特別なお茶ではなくて……
日々の仕事で疲れた人や、風邪を引いて弱ってしまった人が、ふらりと立ち寄って息をつけるためのお茶です。
私はこの路地裏で、皆さんが帰ってこられる温かい場所を守っていたいんです」
その言葉を聞いた瞬間、三人の男たちの表情が、息を呑むような熱い歓喜に染まった。
「……あぁ、リリアナ」
レオナルドが深く息を吐き、安堵に震えるようにリリアナの手を自らの頬へと押し当てた。
「やはり君は、私の誇りであり、魂の救いだ。欲望と虚飾にまみれた宮廷の誰よりも気高く、美しい」
「君がここにいてくれるなら、私はこの店と、この下町のすべてを命懸けで守り抜く」
ジークハルトが背後からリリアナをすっぽりと抱きしめ、広い胸板に閉じ込めるように力を込めた。
琥珀色の瞳には、忠誠と独占欲が狂おしいほど燃え盛っている。
「お姉さん、大好き! 宮廷の茶会なんかより、ここで僕たち四人だけでお茶会する方が百万倍素敵だもん!」
カミルがリリアナの腰に飛びつき、胸元にすりすりと額をこすりつけて満面の笑みを咲かせた。
レオナルドは躊躇うことなく、テーブルの上の豪奢な招待状を指先でつまみ上げると、カミルが灯した小さな青い火種へと差し出した。
金箔の羊皮紙は音もなく燃え上がり、一瞬で灰となって消え去っていく。
「さあ、煩わしい塵は片付いた。……リリアナ、君の秋の新作を私たちに振る舞ってくれるかい?」
レオナルドが甘く艶やかな笑みを浮かべ、リリアナの腰を引き寄せる。
丸テーブルの中央に、焼き立ての無花果のタルトが切り分けられ、湯気を立てるスパイシーなチャイティーが並べられた。
サクッとしたタルト生地と、プチプチと弾ける無花果の濃厚な果汁。
そこにカルダモンとシナモンの爽やかで温かい芳香が重なり、一口ごとに身体の奥がじんわりと解きほぐされていく。
「……美味いな。無花果の滋味とスパイスの温もりが、秋の冷えを忘れさせてくれる」
ジークハルトが目を細め、噛み締めるように呟く。
「君の淹れる茶と菓子があるなら、私はどんな宴席の料理も必要ないよ」
レオナルドがリリアナの空いた指先を絡め取り、至福のため息をつく。
「お姉さん、僕にもあーんして! タルトの端っこ、すっごくサクサクしてて美味しそう!」
カミルが甘えるように口を開け、リリアナの膝の上に乗っかってくる。
窓の外では、秋の澄んだ風が路地裏の木々を揺らし、心地よい木漏れ日が四人をあたたかく包み込んでいた。
宮廷の謀略も、身分の壁も、この小さな店に満ちる温かな光を遮ることはできない。
前世の孤独など跡形もなく融解していくのを感じながら、リリアナは愛しい殿方たちに囲まれ、胸いっぱいの幸福感とともに秋の穏やかな時間を味わうのだった。




