宮廷のさざ波と、晩夏の果実コンポート
夕涼み市の熱気がすっかり落ち着き、王都を吹き抜ける風には、ほんのわずかに秋の気配を告げる涼やかさが混ざり始めていた。
『緑の天幕亭』の厨房で、リリアナは朝市で手に入れたばかりの青梨の皮を丁寧に剥いていた。
シャリシャリと小気味よい音を立てる瑞々しい果肉。
秋口の乾燥から喉や肺を潤し、夏の終わりに溜まった疲労熱を穏やかに逃がしてくれる、この季節ならではの薬効を持つ果実だ。
白ワインとエルダーフラワーのシロップ、そして少量のクローブとレモン果汁でコトコトと煮込んでいくと、透き通るような甘酸っぱい香りがふわりと厨房を満たしていった。
(お祭りが終わって、季節も少しずつ進んでいくのね……)
前世の記憶が胸をかすめる。
夏が終わる頃といえば、四半期の業績ノルマに追われ、社内の派閥争いや心ない噂話が飛び交う殺伐としたオフィス。
誰かが誰かの足を引っ張り、ゴシップの標的にされて胃を痛めていた同僚たちの姿。
そんなことをぼんやりと考えていた時、カラン、とドアベルが静かに鳴った。
訪れたのは、いつもの三人――だが、今朝の三人は揃って、どこか周囲の視線を払うような凛とした覇気を纏っていた。
「おはよう、リリアナ。いい香りだね。梨の甘みがここまで漂ってくる」
レオナルドが淡い銀の瞳を柔らかく細め、カウンター越しにリリアナへと歩み寄る。
仕立ての良い黒の上衣に公爵家の金刺繍が施されており、これから王宮へ登庁する直前の装いだった。
「リリアナ、昨夜はよく眠れたか? 足の疲れは残っていないか」
ジークハルトが背の高い身体を屈めて扉をくぐり、無骨な手をリリアナの額へと伸ばして熱を確かめる。
「お姉さーん! 今日も一番に僕の顔を見て!」
カミルが青いマントを翻して駆け寄り、カウンターの下からリリアナの腰にぎゅっと抱きついてきた。
「ふふ、皆さんおはようございます。……でも、どうされたのですか? なんだか少し、外を警戒されているような……」
リリアナが小首をかしげると、三人は一瞬だけ顔を見合わせ、苦笑を漏らした。
レオナルドがカウンターに指先を添え、落ち着いた美声で静かに口を開く。
「昨夜の夕涼み市のことだ。私たちが君の屋台を手伝い、夜の小路を共に歩いた姿が、どうやら宮廷の一部の貴族たちの耳に入ったようでね」
「えっ……!?」
リリアナは思わず息を呑んだ。
筆頭宰相、近衛騎士団長、そして天才王弟。
この国の屋台骨を支える三人が、下町の一介の町娘に傅いていたなど、宮廷貴族たちにとっては格好のスキャンダルに違いない。
「わ、私のせいで、皆さんの立場に差し障りが……!?」
青ざめるリリアナの手を、ジークハルトが即座に大きな掌で包み込んだ。
「馬鹿を言うな。差し障るなど何一つない」
低く力強い声が、リリアナの不安を一刀両断にする。
「むしろ、貴族どもが君の存在を嗅ぎ回ろうとした瞬間、私が騎士団の巡回網を使ってすべて叩き潰した。
君の店の周囲に不審な馬車が一台でも近づけば、即座に連行するよう通達してある」
「僕だって!」とカミルが胸元から顔を上げ、青い瞳に鋭い魔力を煌めかせた。
「宮廷でくだらない噂話をしてた連中の部屋、僕の防音結界で一週間声が出ないようにしてやろうかと思ったくらいだよ! お姉さんの悪口なんて一言も言わせないんだから!」
「……カミル、それは少々やりすぎだがね」
レオナルドが優雅に肩を竦めつつ、銀の瞳に氷のような冷徹さを宿らせた。
「朝の閣議で、遠回しに私の私生活を探ろうとした子爵がいたが……
彼の領地の不正会計の査察令状にサインして黙らせておいたよ。
リリアナ、君が恐れることなど何もない。いかなる雑音も、私たちの手で完全に遮断してみせる」
前世で、根も葉もない噂や理不尽な責任転嫁に怯え、誰も味方のいない孤独な給湯室で涙を拭っていた日々。
それに引き換え、今目の前にいる男たちは、自分を守るために国家の権力すら惜しみなく行使し、鉄壁の盾となって立ちはだかってくれている。
「皆さん……ありがとうございます。でも、私のせいで皆さんが争いに巻き込まれるのは嫌ですから、あまり無茶はなさらないでくださいね」
リリアナが胸の前で手を握りしめ、案じるように微笑むと、男たちの表情が一瞬にして甘やかな熱情に染まった。
「……こんな状況でさえ、私たちを気遣うのか。君という人は、どこまで私の心を奪えば気が済むのだろうね」
レオナルドがリリアナの手首をそっと引き寄せ、その指先に深い口づけを落とした。
「噂など、むしろ都合がいいとすら思っているよ。私が愛しているのは世界で君ただ一人だと、社交界の全員に知らしめる絶好の機会なのだから」
「閣下の言う通りだ。私は隠すつもりなど毛頭ない」
ジークハルトがリリアナの肩を抱き寄せ、自らの広い胸板へと閉じ込める。
「私が守るべき唯一の光は君だ。誰が何を言おうと、私の番は君しかいない」
「僕はお姉さんをお城に連れて行って、王族の執務室の真ん中で毎日いちゃいちゃしたいもん!」
カミルがリリアナの腕にすがりつき、胸元にすりすりと額をこすりつけて甘えた声を上げた。
「もう……三人とも、朝から何を仰っているんですか」
顔から火が出そうになりながら、リリアナは仕上がったばかりのガラスの小鉢をカウンターへと並べた。
透き通るような白ワインシロップに浸された、黄金色の青梨のコンポート。
エルダーフラワーの可憐な香りと、クローブの温かみのある香気が立ち上る。
「はい、お口直しです。これからお仕事でしょう? 身体を温めながら喉を潤す、梨のコンポートですよ」
銀のスプーンで梨を一口頬張った瞬間、三人の表情が至福の安らぎに緩んだ。
シャリッとした心地よい歯ざわりとともに、じゅわりと溢れ出す上品な蜜の甘み。
鼻腔を抜ける華やかなハーブの香りが、宮廷の煩わしさを一瞬で忘れさせていく。
「……美味いな。梨の甘みが疲れた神経を優しく解きほぐしてくれる」
ジークハルトが噛み締めるように呟く。
「君の作るものは、どんな策謀や権謀術数よりも力強く、私の心を平穏で満たしてくれるよ」
レオナルドが目を細め、リリアナの手のひらを愛おしそうに撫でる。
「お姉さん、あーんして! 最後の一口、お姉さんの手から食べたい!」
カミルが無邪気にねだり、甘えるように口を開ける。
宮廷のさざ波など、この小さな路地裏の温もりを揺るがすことはできない。
窓から差し込む晩夏の爽やかな朝の光の中、世界で最も尊い男たちからの狂おしいほどの愛と守護に包まれながら、リリアナは胸いっぱいの幸福感とともに、穏やかな一日の始まりを迎えるのだった。




