祭りのあとの静けさと、真夜中の冷製ハーブ酒
提灯の灯りがひとつ、またひとつと落とされ、賑やかだった祭りの喧騒が遠い潮騒のように遠ざかっていく。
『緑の天幕亭』の裏口の扉がカチャリと静かに閉ざされた瞬間、外の熱気は遮断され、店内には夜の帳と穏やかなハーブの香気が満ちた。
「ふう……本当に、夢のような一夜でしたね」
リリアナがほっと息を吐き、カウンターの椅子に腰を下ろそうとした瞬間、レオナルドの白く長い指先がその背をそっと支えた。
「疲れただろう。下町の石畳は平坦ではないからね。……まずは足を休めなさい」
レオナルドは銀の瞳を細め、リリアナの髪に挿された白檀のかんざしをそっと指先でなぞった。
揺れる小さな硝子玉が、月明かりを反射して淡くきらめく。
「祭りの熱に浮かされた町人どもから君を隠すのに、少々神経を尖らせすぎたようだ。
だが……君がこれほど愛らしく笑ってくれるなら、苦労などすべて吹き飛んでしまうよ」
「閣下の言う通りだ。人混みの中、怪我ひとつなくて本当に良かった」
ジークハルトが黒い隊服の上着を脱いで椅子の背に掛け、リリアナの足元に自然な動作で片膝をついた。
鍛え抜かれた無骨な手でリリアナの小さな靴の留め金を外し、歩き疲れた足首をそっと手のひらで包み込む。
「痛みはないか? 私がずっと抱き上げて歩けばよかったのだが、君が遠慮するからな」
「ジークハルトさん、そんな……! お祭りの真ん中でお姫様抱っこなんてされたら、恥ずかしさで倒れてしまいます!」
リリアナが真っ赤になって抗議すると、ジークハルトの琥珀色の瞳が熱っぽく緩み、低く喉を鳴らして笑った。
「お姉さん、喉かわいたでしょ? 僕、冷たいお水出してあげる!」
カミルがカウンターの奥へと駆け込み、銀のピッチャーから氷水を注ごうとする。
そんな三人の過保護な気遣いを受け止めながら、リリアナはふわりと笑って首を横に振った。
「皆さん、少しだけ待ってください。
……今夜は私から、祭りの熱を冷ます特別な『寝酒』をお出ししたいんです。三人とも、私のためにずっと周囲を警戒して、全然ゆっくりできなかったでしょう?」
リリアナはカウンターの中へ入り、小さな硝子瓶を棚から取り出した。
漬け込んでおいたのは、初夏の青林檎とレモンバーベナ、そして爽快感のあるペパーミントを白ワインと極少量の蜂蜜に漬け込んだ、自家製の冷製薬草酒だった。
カミルが指先で軽く触れて冷気を纏わせた薄張りのグラスに、淡い翡翠色の酒を注ぎ、仕上げに炭酸水をひと回し。
シュワシュワと涼やかな泡が弾け、柑橘と薬草の清々しい芳香がふわりと立ち上った。
「どうぞ。歩き疲れた身体の熱を払い、深い眠りに導くお酒です」
カウンターを囲んだ三人が、それぞれにグラスを傾けた。
きめ細やかな泡とともに、青林檎の爽やかな酸味とハーブの香気が喉を通り抜け、胸の奥底に籠もっていた祭りの熱気がすっと引いていく。
「……美味いな。酒の角が完全に取れていて、果実の瑞々しさと草の清涼感が喉を潤す」
ジークハルトが一息に飲み干し、感嘆のため息をついた。
「単なる酒ではないね。君が注いでくれた愛情の温度が、乾き切った身体の隅々まで染み渡るようだ」
レオナルドが銀の瞳を潤ませ、リリアナのグラスを持つ手を自らの手でそっと包み込んだ。
「んん~っ、すっごく美味しい! 甘くて爽やかで、なんだかふわふわしてきちゃった……」
カミルがグラスを置くと同時に、リリアナの腰に両腕を回し、その胸元にすりすりと額を押し付けてきた。
「お姉さん、僕ね、今日のお祭りのこと、一生忘れないよ。
……来年も、再来年も、その先もずっと、僕たち四人でこのお祭りに来ようね」
「カミル……」
リリアナがカミルの柔らかな金髪に触れると、少年は蕩けるような笑みを浮かべ、リリアナの細い手首に自らの唇を擦り寄せた。
「約束だよ? お姉さんの未来は、全部僕たちにちょうだいね」
無邪気さを装いながらも、瞳の奥に宿る熱烈な独占欲は本物だった。
「カミルの言う通りだ。君の隣に立つ権利を、他の誰かに譲るつもりは毛頭ない」
レオナルドがリリアナの背後に回り込み、その肩を引き寄せて耳元に唇を寄せた。
「身分差など、最初から存在しない。君が平民としてこの店を守りたいなら、私は宰相の権限すべてを使って君の安らぎを守り抜こう。
……今夜の君は、世界中の誰よりも眩しく、愛らしかった」
「君の歩む道に、私がすべての障害を薙ぎ払う盾となる」
ジークハルトが立ち上がり、リリアナの正面からその大きな両腕で彼女を閉じ込めるように抱き寄せた。
「君が笑っていられるなら、この命など安いものだ。……リリアナ、生涯君だけを愛し抜くと誓おう」
夜風がカーテンを微かに揺らし、カウンターに置かれた一本の蝋燭が、四人の重なり合う影を優しく揺らめかせる。
前世での記憶が、遠い幻のように胸をかすめた。
祭りどころか、金曜の深夜まで残業に追われ、終電の蛍光灯の下でコンビニの缶チューハイを煽りながら、「私の一生はこのまま誰にも知られずに終わるのだろうか」と、冷たい涙を噛み殺していたあの日々。
あの頃の自分には想像もできなかった。
こんなにも大切にされ、こんなにも尊い男たちから命がけの愛を捧げられ、一つのグラスを囲みながら夜を明かせる未来が待っているなんて。
「……ふふ。私も、来年も皆さんと一緒にお祭りに行きたいです」
リリアナが素直な想いを告げると、三人の男たちの顔が一斉に歓喜で輝いた。
ジークハルトの腕の力がぎゅっと強まり、レオナルドが額へと甘く深い口づけを落とし、カミルが腰にしがみついて嬉しそうに声を弾ませる。
祭りのあとの静かな真夜中。
小さな路地裏の店先で、重なり合う体温と尽きることのない情愛に抱かれながら、四人の穏やかでどこまでも甘い時間は、夜明けの光が差し込むまで静かに溶け合っていくのだった。




