提灯揺れる夕涼み市と、四人で歩く夜の小路
夕暮れの空が深い藍色へと沈むにつれ、下町の通りに連なる無数の紙提灯に、ぽっと温かな朱色の灯が灯り始めた。
露店から漂う香ばしい焼き串の匂い、子どもの吹く笛の音、威勢のいい商人たちの呼び込み声。
街全体が楽しげな祝祭のざわめきに包まれる中、『緑の天幕亭』の店先に出された特設屋台は、早くも長蛇の列で溢れかえっていた。
「はいよ! お嬢ちゃん特製の『涼桃のグラニテ』、三つお待ち!」
「氷の削り出しは任せておけ、腕力なら余るほどある!」
屋台を切り盛りしているのは、鍛冶屋の親方や下町の若衆、そして非番の近衛騎士たちだった。
昨日の宣言通り、町の人々と兵士たちが一丸となって売り子と氷削りを引き受け、リリアナは店先の長椅子に座らされ、笑顔でお客に会釈をするだけの「看板娘」に徹させられていた。
「皆さん、本当に私がお手伝いしなくても大丈夫ですか……?」
「馬鹿言っちゃいけないよ! お嬢ちゃんがまた倒れたら、王都中の男どもに恨まれちまう!」
親方が豪快に笑いながら、飛ぶように売れていくグラニテを手渡していく。
カミルの保冷結界によって極上の口どけを保った薄紅色の氷菓子は、祭りの熱気で火照った人々の喉を潤し、「生き返る!」「桃の香りがたまらない」と絶賛の嵐を巻き起こしていた。
用意していた大樽三つ分のグラニテは、宵の口を迎える前にあっという間に完売御礼となった。
「さあ、店仕舞いは彼らに任せて、私たちの時間だ」
裏口から現れたレオナルドが、薄布のフードを外して微笑みかけた。
今夜の彼は、貴族の豪奢な装飾を排した、夜風に軽くなびく深い藍色のリネンシャツを纏っている。
それだけでも、街灯の下で息を呑むほど艶やかな美貌が際立っていた。
「リリアナ、人混みに入る。絶対に私の傍を離れるなよ」
ジークハルトが黒い隊服の上着を肩に羽織り、リリアナの横に寄り添う。
鍛え抜かれた巨躯が自然と盾となり、行き交う人々がリリアナにぶつからないよう完璧な壁を作り出していた。
「お姉さん、行こう! 僕が屋台のぜーんぶを案内してあげる!」
普段の魔導礼装を脱ぎ、動きやすい白と青の軽装姿のカミルが、リリアナの手をぎゅっと引いた。
四人で歩き出す夕涼み市は、まるで夢のように煌びやかだった。
「お姉さん、見て見て! 水精霊の露店だよ!」
カミルが足を止めたのは、湧き水を張った大きな盥に、淡く発光する色とりどりの水精霊の結晶が浮かぶ露店だった。
カミルが指先をひらりと動かすと、水中の結晶たちがまるでお遊戯をするように自ら跳ね上がり、一番大きく美しい夜空色の結晶がリリアナの手のひらへと飛び込んできた。
「はい、プレゼント! お姉さんの瞳と同じ色だよ。ずっと持っててね」
「ふふ、ありがとうカミルさん。とっても綺麗」
リリアナが目を細めると、カミルは誇らしげに胸を張り、リリアナの腕にすりすりと頬を寄せた。
通りを進むと、今度は人混みが急に押し寄せてきた。
神輿の練り歩きが近づき、人々が歓声を上げながら波のように押し寄せてくる。
「きゃっ……」
足を取られそうになったリリアナの身体を、背後から伸びてきた分厚く逞しい腕が、抱きすくめるようにして宙へと引き上げた。
「危ない」
低く掠れた声とともに、ジークハルトの広い胸板へと背中からすっぽり閉じ込められる。
ジークハルトはリリアナを抱きかかえたまま、びくともしない足取りで人混みを割り、大通りの喧騒から一本外れた静かな小路へと彼女を導いた。
「怪我はないか? 踏まれはしなかったか?」
「だ、大丈夫です……ジークハルトさん、力持ちですね」
「君が軽すぎるのだ。……人混みで君がさらわれてしまいそうで、気が気でなかった」
ジークハルトはリリアナを降ろすと、その小さな肩を包み込むように抱き寄せ、琥珀色の瞳を熱く濡らした。
小路の先には、運河沿いに続く石造りの遊歩道が広がっていた。
川面には提灯の明かりが揺らめき、川風が心地よい冷涼な空気を運んでくる。
祭りの喧騒が遠くの潮騒のように静まり返る、二人きり――ならぬ、四人きりの隠れ家のような場所だった。
「リリアナ」
静かに歩み寄ってきたレオナルドが、懐から小さな小箱を取り出した。
開かれた蓋の奥にあったのは、上等な白檀の木を丁寧に削り出し、咲き誇るカモミールとミントの葉を彫り込んだ、繊細な細工のかんざしだった。
先端には、小さな朝露のような硝子玉が揺れている。
「露店で見かけてね。職人の手仕事だが、あまりに君の気品に似合っていたから」
レオナルドは優美な手つきでリリアナの髪をすくい上げると、風に揺れる栗色の髪へ、そのかんざしをそっと挿し込んだ。
白く長い指先がリリアナの耳元をなぞり、頬を包み込む。
「……素晴らしい。どんな宝石を飾るよりも、君の無垢な美しさが引き立つよ」
「レオさん……こんな素敵なものを、ありがとうございます」
水面を渡る涼風が吹き抜け、川面に映る提灯の灯りが揺れる。
前世の記憶が、リリアナの胸をふとよぎった。
夏の夜、オフィス街のビルの谷間から遠くに見えた提灯の明かり。
残業帰りの冷え切った身体を引きずりながら、「お祭りなんて、私には関係のない遠い世界の出来事だ」と、誰にも振り返られることなく一人きりで歩いた、あの寂しい帰り道。
あの頃の自分に見せてあげたい。
こんなにも温かい光の中で、こんなにも自分を大切に思い、一歩歩くごとに慈しんでくれる男たちに囲まれている、奇跡のような今を。
「……どうしたんだい? 少し、瞳が潤んでいるようだが」
レオナルドが銀の瞳を案じるように細め、リリアナの目元に指先を添えた。
「ううん……なんだか、あんまり幸せで、胸がいっぱいになってしまって」
リリアナが素直に微笑むと、三人の男たちの表情が一瞬にして息を呑むような熱情に染まった。
「お姉さん……っ!」
カミルがたまらないといったようにリリアナの腰に抱きつき、その胸元に顔を埋めた。
「僕たちとお祭りに来て、そんなに喜んでくれたの? 僕、もっともっとお姉さんを幸せにする! 毎晩だってお祭りにしてあげる!」
「君のその笑顔が見られるなら、私は何度でも戦い、何でも差し出そう」
ジークハルトが無骨な大きな手でリリアナの手を包み込み、引き寄せて自らの額を彼女の肩へと預けた。
「君を孤独になど、二度とさせないよ。過去に君を傷つけた寒さのすべてを、私たちがこの愛で塗り替えてみせる」
レオナルドがリリアナのもう片方の手首をそっと引き寄せ、その指先へ、誓いを立てるように熱く深い口づけを落とした。
三者三様の熱い体温と、尽きることのない情愛の波。
運河を渡る初夏の夜風に吹かれながら、リリアナは胸いっぱいに広がる甘い痺れと幸福感に身を委ね、愛しい殿方たちに包まれて、満開の花のように微笑み返すのだった。




