下町の夕涼み市と、桃の氷菓子
過酷を極めた夏風邪の流行が完全に収束し、王都の下町には再び活気ある日常が戻っていた。
酷暑のピークを越えた街角には、夕暮れ時になると川沿いから涼やかな風が吹き抜け、石畳を渡る人々の表情にも柔らかな笑顔が戻っている。
熱病を克服した祝いと、夏の無事を祈る下町恒例の行事――『夕涼み市』の開催が間近に迫っていた。
通りには色とりどりの紙提灯が吊るされ、広場には木組みの屋台が立ち並び始めている。
その中心にある『緑の天幕亭』の厨房で、リリアナは夕涼み市で振る舞うための特別な新作菓子の試作に没頭していた。
「うん、シロップの煮詰め具合はちょうどいいわね」
作業台に並んでいるのは、甘く芳醇な香りを放つ完熟の白桃と、鮮やかな紅色のハイビスカス、そして裏庭で摘んだばかりのフレッシュなペパーミントだ。
じっくり煮詰めて薔薇色に染まった桃のコンポートに、酸味の利いたハイビスカスとミントの煎じ汁を合わせ、粗く砕いた氷とともに冷やし固めて作る『涼桃のグラニテ』
シャリシャリとした繊細な氷の食感と、果汁の濃厚な甘み、そして後味をキュッと引き締めるハーブの爽快感が特徴の冷製氷菓子だった。
前世の記憶がふと蘇る。
夏の盛り、駅前で開かれていた夏祭りの賑わいを横目に、重いパソコン入りの鞄を抱えて足早に通り過ぎていたあの日々。
浴衣を着て笑い合う人々を羨む余裕すらなく、終電に揺られて帰り、冷え切った部屋でコンビニのアイスバーを一人かじっていた孤独な夜。
(あの頃の私に、こんな風に季節のお祭りを誰かと心待ちにする日が来るなんて言っても、きっと信じてもらえなかったでしょうね)
リリアナが思わず苦笑いを零した、その時だった。
「ずいぶん愛らしい香りを漂わせているね、リリアナ」
「外の広場まで甘い匂いが流れてきていたぞ」
「お姉さーん! 今日も一番乗りで会いに来たよ!」
裏口と表の扉がほぼ同時に開かれ、いつものように三人が足並みを揃えて現れた。
薄絹の上等なシャツを身にまとったレオナルドが、執務上がりの疲れを銀の瞳の奥に隠して優雅に歩み寄る。
その後ろからは、非番の黒い隊服姿のジークハルトが、鍛え抜かれた逞しい腕に大工道具の入った革袋を提げて入ってきた。
夕涼み市の屋台の骨組み補強を、町の大工たちと一緒に手伝ってきた帰りなのだろう。
そしてカミルは、青い燐光を散らしながらリリアナの足元へふわりと転移し、迷いなくその腰に抱きついてきた。
「ふふ、皆さんお疲れ様です。ちょうど夕涼み市に出す冷たい氷菓子を試作していたところなんですよ」
リリアナが硝子の小鉢を掲げると、三人の瞳が一斉に輝いた。
「氷菓子か。……では、仕上げは僕に任せて!」
カミルが胸を張り、指先をパチンと鳴らした。
淡い冷気魔法の粒子が小鉢を包み込むと、桃色のシロップが一瞬にして極細の氷の結晶へと変化し、淡雪のようにふんわりと空気を含んだ極上のグラニテへと仕上がった。
「僕の極微凍結魔法なら、氷の粒を一番口どけが滑らかなサイズに固定できるんだから!」
「ありがとう、カミルさん。魔法って本当に万能ね」
リリアナが目を細めて褒めると、カミルは子猫のように喉を鳴らし、リリアナの胸元にすり寄ってきた。
「えへへ、お姉さんのためなら世界の法則だって書き換えてあげるよ!」
「カミル、抜け駆けは感心しないな。……リリアナ、味見役なら私が務めよう」
レオナルドが歩み寄り、リリアナの横に立つと、彼女が手にしていた銀のスプーンを自らの指でそっと導いた。
リリアナが掬った薄紅色の氷菓子を、レオナルドは彼女の指先が触れている至近距離から、躊躇うことなく口に含む。
薄い唇が銀のスプーンを包み込み、ゆっくりと味わうように瞳を細めた。
「……素晴らしい清涼感だ。桃の濃厚な蜜の甘みを、ハイビスカスの凛とした酸味が見事に引き締めている。
口に含んだ瞬間にすっと熱が引き、頭の奥まで心地よい涼風が吹き抜けるようだ」
銀の瞳を熱く濡らしたレオナルドは、リリアナの手首をそっと握ると、その指先へ甘やかな吐息を吹きかけた。
「君の作るものは、いつも私の渇いた心を完璧に満たしてくれる。
……この甘みを、他の男たちに振る舞うのが惜しくてたまらなくなるほどだ」
「閣下、厨房で独占欲を剥き出しにするのはやめていただきたい」
ジークハルトが太い眉を寄せて割り込み、リリアナのもう片方の手を無骨な掌で包み込んだ。
「リリアナ、私にも一口分けてくれ。外の力仕事で身体が火照っている」
「はい、ジークハルトさんもどうぞ」
リリアナが新しくスプーンで掬って差し出すと、ジークハルトは大きな口でそれをパクリと受け止めた。
途端に、百戦錬磨の騎士の琥珀色の瞳が見開かれる。
「……美味い! 喉の渇きが一瞬で消え去り、火照った身体の芯に染み渡る。
これなら、祭りの熱気でバテた民も一息に生き返るだろう」
ジークハルトは満足げに息をつくと、リリアナの華奢な肩を抱き寄せ、自らの分厚い胸板へと引き寄せた。
「だが、当日は君を一日中屋台の前に立たせるわけにはいかん。
人混みの熱気は凄まじい。
配膳は騎士団の非番の者たちにやらせ、君は私の横で休んでいてもらう」
「ちょっと待ってよ! お姉さんとお祭りを回るのは僕なんだから!」
カミルが二人の間に強引に割り込み、リリアナの腕にすがりついて抗議の声を上げた。
「僕が屋台の美味しいものをぜーんぶ買ってあげるし、水精霊の露店だって全部景品を取ってあげるんだから! お姉さんの隣は僕の特等席だよ!」
「いや、人混みの中で彼女を護衛するなら、私の腕の中に抱き寄せて歩くのが最も安全だ」
レオナルドが艶やかな笑みを浮かべながら、リリアナの腰を引き寄せる。
「警護の専門家である私を差し置いて、何を言っている。私の背中に乗せて歩けば、誰の視線も届かん」
ジークハルトが低く唸るように言い放つ。
「三人とも、落ち着いてください……! お祭りは皆で一緒に楽しむものですから!」
真っ赤になって狼狽えるリリアナの言葉に、男たちは互いに視線を交錯させ、やがてたまらないといったように苦笑を漏らした。
窓の外からは、夕暮れの空を茜色から群青へと染め変える風が吹き込み、下町の提灯にぽつぽつと温かな灯りが灯り始めていた。
遠くから聞こえてくる子供たちの笑い声と、祭りの囃子の調べ。
かつて、孤独にすり減っていた夏の夜。
誰にも見向きもされず、冷たい部屋で一人膝を抱えていた自分。
けれど今、目の前には、自分ひとりの笑顔と温もりを奪い合うように愛してくれる、かけがえのない大切な人たちがいる。
硝子の小鉢に残る甘酸っぱい桃の香りと、重なり合う熱い体温。
下町を包む夕涼みの風の中で、四人が紡ぎ出す甘やかで騒がしい時間は、どこまでも幸せに満ちて続いていくのだった。




