甘やかな褒美の夜と、三人の至極の温もり
店の表看板を片付け、しっかりと閂を下ろした瞬間、リリアナの身体はふわりと宙に浮き上がった。
「きゃっ……!?」
「歩く必要はない。褒美の時間だと言っただろう」
見上げれば、ジークハルトが事も無げにリリアナを横抱きに抱きかかえていた。
普段の鎧を外した薄手のシャツ越しでも分かる鉄のように硬い胸板と、抱き上げられた腕の頼もしい力強さ。
抗う間もなく、大股の足取りで二階の居住スペースへと運ばれていく。
「ジークハルトさん、もう足は何ともありませんから、下ろしてください……!」
「駄目だ。今日は店主として立派に勤めを果たしたのだ。その足を一歩たりとも床につけさせる気はない」
ジークハルトは低く喉を鳴らして微笑むと、リリアナを寝室のふかふかの絨毯の上にそっと降ろした。
そこにはすでに、信じられない光景が用意されていた。
「お姉さん、おかえり! お風呂の準備、完璧にしておいたよ!」
部屋の奥にある小さな湯浴み場から顔を出したカミルが、満面の笑みで手招きする。
覗き込んだリリアナは、息を呑んで立ち尽くした。
普段は手狭で質素なはずの木樽の湯殿が、カミルの魔導によってまるで高級スパの泉のように変貌していたのだ。
湯気とともに立ち上るのは、清涼なラベンダーと甘いオレンジフラワーの極上の芳香。
水面には薄桃色の薔薇の花弁が贅沢に浮かべられ、底からは常に適温の湯が湧き出る循環結界が施されていた。
「これ……カミルさんが?」
「うん! お姉さんのために、疲労回復と美肌効果のある精霊水を空間転移で引っ張ってきたの。冷え性にも効くし、筋肉の凝りもぜーんぶ解けちゃうよ!」
「さあ、ゆっくり湯に浸かっておいで。私たちは部屋の外で待っているから」
レオナルドが銀の瞳を細め、公爵家秘伝の肌触りの良い純白のバスローブとタオルを手渡してくれる。
「君が湯から上がるまでに、特別な夜のお茶を用意しておこう」
三人に促されるまま、リリアナは湯船に身体を沈めた。
熱すぎず温すぎない絶妙な湯が肌を包み込み、精霊水とハーブのエキスがじんわりと毛穴から染み渡っていく。
前世では、湯船に湯を張る気力すら残っておらず、冬場でも冷たいシャワーを手早く浴びてベッドに倒れ込むだけだった。
温もりを味わう時間すら惜しむほど追い詰められていた日々の記憶が、甘い湯気の中に溶けて消えていくようだった。
「……ふぅ……本当に、極楽だわ……」
芯まで温まり、ほてった肌に清潔なリネンの部屋着を纏って湯浴み場を出ると、部屋の灯りは優しく絞られていた。
待っていた三人の視線が一斉にリリアナへと注がれる。
湯上がりでほんのり桜色に染まった肌、湯気に濡れて艶めく栗色の髪。
無防備な佇まいのリリアナを目にした瞬間、三人の男たちの瞳に、隠しようのない濃密な熱が灯った。
「……息を呑むほど美しいな」
レオナルドが掠れた声を零し、真っ先に歩み寄ってきた。
彼はリリアナの手を取り、寝台の脇の大きな安楽椅子へと優しく導く。
「湯冷めをしては台無しだ。髪を乾かさせておくれ」
レオナルドは柔らかな大判のタオルをリリアナの頭にふわりと被せると、細く白い指先で丁寧に水気を吸い取り始めた。
公爵家の筆頭宰相が、平民の娘の髪を乾かすために膝をついているのだ。耳元を指先がかすめるたび、リリアナの首筋がくすぐったさに微かに竦む。
「レオさん、自分でできますよ……」
「駄目だ。今夜は私の言うことを聞く約束だろう」
レオナルドは銀の瞳を濡らし、リリアナの項にそっと顔を寄せた。
「石鹸の香りと、君自身の甘い匂いが混ざり合って……私の理性を狂わせそうだ。君の髪一本に触れることすら、私にとってはどんな権力よりも価値がある」
「閣下、髪が乾いたなら代わっていただきたい」
待ちきれない様子でジークハルトが割って入った。
ジークハルトはリリアナの肩に、カシミアと毛皮で編まれた大きなブランケットをふわりと羽織らせると、その身体をブランケットごとすくい上げ、自分の逞しい膝の上へと抱き上げた。
「ジ、ジークハルトさん……!?」
「足が冷えては困る」
低く掠れた弁明とともに、リリアナの素足がジークハルトの熱い手のひらですっぽりと包み込まれる。
背中に当たる分厚い胸板からは、ドクドクと力強く脈打つ鼓動が直接伝わってきた。
戦場を統べる英雄の腕の中にすっぽりと閉じ込められ、男らしい汗の匂いと温もりに包まれると、頭の芯がぽうっと蕩けていく。
「君の肌は本当に柔らかいな。……折れてしまいそうで、だが片時も離したくない」
ジークハルトはリリアナのうなじに鼻先を埋め、深く息を吸い込んだ。
「店で民のために笑いかける君も誇らしいが……こうして私の腕の中だけで無防備に息をつく君が、たまらなく愛おしい」
「ずるい! 二人とも抜け駆けはずるいよ!」
カミルが膨れっ面をしながら、手にした銀のトレイをサイドテーブルに置き、リリアナの正面へと膝をついた。
トレイに乗っていたのは、淡いピンク色をした特製のナイトキャップだった。
「お姉さん、あーんして! 蜂蜜と甘いミルクに、睡眠を深める夜咲き草のエキスを混ぜた特製ドリンクだよ!」
カミルが小さな陶器のカップをリリアナの唇へと寄せてくる。
一口含むと、まろやかなミルクのコクとベリーの酸味、そして蜂蜜の濃厚な甘みが口いっぱいに広がり、胃の腑に落ちた瞬間、身体の奥がとろりと弛緩した。
「美味しい……すごく落ち着く味です」
リリアナが微笑むと、カミルはパッと青い瞳を輝かせ、そのままリリアナの腰にすがりついて胸元へ額をこすりつけてきた。
「お姉さんに美味しいって言ってもらえるのが、世界で一番嬉しい! ねえ、今夜は僕を真ん中にして寝てね。朝までずっと、僕がぎゅって抱きしめててあげるから!」
ジークハルトの膝の上で抱きしめられ、背中から熱い体温を注ぎ込まれながら、右からはレオナルドの長い指がリリアナの指先を絡め取り、正面からはカミルが胸元にすり寄ってくる。
前世で、終電の冷たい吊り革に掴まりながら、「誰にも愛されないまま、独りぼっちで朽ちていくのだろうか」と怯えていた夜。
あの寒々しい記憶が、今、三者三様の熱狂的な情愛によって完全に上書きされていく。
「……皆さん、こんなに甘やかしてくださったら、私、だめになってしまいます……」
リリアナが恥ずかしさに赤面しながら呟くと、レオナルドが愛おしさに堪らないように目を細め、彼女の指先へ熱い口づけを落とした。
「いくらでも駄目になりなさい。君が自分ひとりで立とうとする重荷を、私たちがすべて奪い去ってあげよう」
「君はただ、この腕の中で甘えて笑っていればいいのだ」
ジークハルトの熱い吐息が耳朶を打つ。
「僕たちが、世界でいっちばん幸せなお姫様にしてあげるからね!」
カミルが無邪気な、けれど確固たる執着を宿した笑顔で見上げてくる。
やがて四人は寝台へと移動し、大きな毛布に包まった。
左隣にレオナルド、右隣にジークハルト、そして胸元にすっぽりと収まったカミル。
逃げ場のない鉄壁の温もりの中で、リリアナの瞼は満ち足りた幸福感とともにゆっくりと重くなっていった。
窓の外では、王都の夜空に静かな星々が瞬いている。
冷たい孤独など、もう二度と訪れない。
世界で最も尊い男たちからの惜しみない愛に包まれながら、リリアナは深く、穏やかな夢の世界へと落ちていくのだった。




