営業再開の朝と、鉄壁の過保護シフト
一夜明け、王都を包む朝の空気は、熱病の嵐が去ったことを告げるように澄み渡っていた。
軒先に揺れる木製の看板には、昨日まで掲げられていた「臨時休業」の札に代わり、「営業中」の新しい札が誇らしげに掛けられた。
「よしっ、今日からまた頑張るわよ!」
リリアナは清潔な麻のエプロンの紐をキュッと締め、意気揚々と厨房の扉を開けた。
……が、そこに広がっていた光景に、彼女は思わず目を見張って立ち尽くすこととなった。
「あ、あれ……?」
本来なら毎朝の重労働であるはずの作業が、何ひとつ残っていなかったのだ。
井戸から汲み上げるはずの冷涼な湧き水は、すでに特大の水瓶三つに満杯に満たされている。
一日分の薪は寸分の狂いもなく細く割られてストーブの脇に美しく積み上げられ、重い穀物の袋や粉樽も、すべて使いやすい高さの調理台の上へと整然と配置されていた。
「起きたか、リリアナ」
勝手口から音もなく入ってきたのは、黒い革の胸当てを身につけたジークハルトだった。
額に薄っすらと汗を滲ませ、無骨な腕の筋肉を誇るように捲り上げたその姿は、すでにひと仕事終えた清々しさに満ちている。
「ジークハルトさん……! これ、全部やってくださったのですか? 朝の見回りは……?」
「早朝の見回りの合間だ。君が重い荷を抱えて再び腰や手首を痛めるくらいなら、これしきの力仕事、朝の鍛錬にもならん。……約束したはずだ。重いものは一切持たせないと」
ジークハルトは至極当然のように言い放つと、大きな掌でリリアナの頭を優しく撫でた。
鍛え抜かれた体躯から漂う朝露と男らしい熱気に、リリアナの頬が朝一番からカッと熱くなる。
「ジークハルトばかりに良い格好はさせないよ、お姉さん!」
背後でパチンと指を鳴らす音が響いたかと思うと、ふわりと柔らかな青い光が店全体を包み込んだ。
現れたカミルが、得意げに胸を張ってリリアナの腰に抱きついてくる。
「僕の特製『快適常春結界』、起動完了! 厨房の火の熱気は外に逃がして、お姉さんの周りだけは一番涼しい温度にキープするんだ。それからね、これを見て!」
カミルが指差したのは、カウンターの隅に置かれた小さな硝子の小鳥の置物だった。
「あれは疲労検知の魔導具だよ。お姉さんの心拍数が上がったり、体温が平熱より少しでも上がったら、ピピピって鳴って僕に通信が飛ぶの。
そしたら僕、どこにいても一秒で飛んできてお姉さんをお姫様抱っこで寝台に運ぶからね!」
「そ、そんな厳戒態勢……! 私、ただの喫茶店の営業をするだけですよ!?」
思わずたじろぐリリアナだったが、そこへカランと優雅なドアベルの音が響いた。
表の扉を開けて入ってきたのは、仕立ての良い濃紺の執務服に身を包んだレオナルドだった。
背後には、公爵家の紋章が入った荷車を引く従者たちを従えている。
「おはよう、リリアナ。素晴らしい朝だね」
「レオさんまで……! まだ開店前ですよ?」
「分かっているとも。今日は王宮への登庁前に、店主の健康管理状況を査察に来ただけだ」
レオナルドは銀の瞳を甘く細めると、従者たちに命じて極上の木箱をカウンターへと運び込ませた。
蓋を開けると、冷気とともに現れたのは、公爵家の専用氷室から切り出された透き通る天然氷と、南方領から夜通し馬を飛ばして取り寄せたという最高級の柑橘類やハーブの山だった。
「仕入れの買い出しで君が炎天下の市場を歩き回る必要はない。必要な食材はすべて我が家から手配させた。
……君の仕事は、涼しい厨房で、好きなように茶を淹れることだけだ」
レオナルドは歩み寄り、リリアナの細い指先をすくい取ると、手の甲へ朝の誓いを刻むように深く口づけを落とした。
「無理をしようとしたら、即座に店ごと買い取って私の私有地にしてしまうから、そのつもりでね」
「もう……三人とも、過保護が過ぎます……!」
リリアナは困り果てて顔を真っ赤にしたが、胸の奥底から込み上げてくるのは、痛いほどの温もりと幸福感だった。
かつて、体調を崩しても「自己管理がなっていない」と責め立てられ、誰も代わってくれない過酷な現場で一人きり耐えるしかなかった前世。
それに引き換え、今はこの国の頂点に立つ男たちが、自分ひとりの健康と笑顔を守るために、国家機密レベルの防衛網を敷いてくれているのだ。
やがて開店の時間を迎え、店先に暖簾が掲げられると、待ちわびていた町の人々が次々に顔を覗かせた。
「お嬢ちゃん! もう起き上がって大丈夫なのかい!?」
「無理すんじゃないよ、顔見に来ただけなんだから!」
やってきたのは、以前リリアナの薬膳スープで救われた鍛冶屋の親方や、パン屋の夫婦、仕立屋の娘たちだった。
驚いたことに、客たちは注文を終えると、自分たちでカウンターまでトレイを取りに来て、飲み終えた器を自ら洗い場まで運んでいく。
「お嬢ちゃんの手を煩わせるわけにはいかねえからな!」
「皿洗いだって、手荒れしちまうだろ? 私たちでやるよ!」
誰もがリリアナを気遣い、大切に慈しむように接してくれる。
厨房にはカミルの魔法で爽やかな冷風が吹き抜け、重い氷の運搬は巡回中の近衛騎士たちがさりげなく手伝い、昼過ぎには執務を抜け出してきたレオナルドがカウンターの特等席で鋭い銀の瞳を光らせてリリアナの働きすぎを監視する。
誰一人としてリリアナを使い潰そうとせず、世界中が彼女の休息と健やかさを守るために動いている。
夕暮れ時、最後の一杯を淹れ終えて「本日は完売」の札を掲げた時、リリアナは驚くほど身体が軽やかなことに気づいた。
一日を終えても足は浮腫んでおらず、息切れもせず、心にはただ純粋な「今日も楽しかった」という充実感だけが満ちていた。
「ふふ……本当に、何ともないわ」
リリアナが思わず笑顔をこぼした瞬間、待ち構えていた三人が一斉に彼女を取り囲んだ。
「よく約束を守ってくれたね、リリアナ」
レオナルドが背後から彼女の肩を優しく抱き寄せ、その首筋に安堵の吐息を落とす。
「無事に一日を乗り切ったな。……君が無理をせず、笑っていてくれたことが何より嬉しい」
ジークハルトが正面からリリアナの手を包み込み、愛おしそうに引き寄せる。
「お姉さん、えらい! 約束を守れたお利口さんのお姉さんには、僕たちからのご褒美が必要だよね!」
カミルが横から勢いよく飛び込み、リリアナの腰にぎゅっと抱きついて見上げた。
「ご褒美、ですか……?」
リリアナが瞬きをすると、三人は示し合わせたように甘く危険な光を目に宿した。
「当然だろう。今夜は君を誰の手にも渡さず、私たちの手で、心ゆくまで甘やかし尽くす時間だ」
レオナルドの低く艶やかな声が耳元をくすぐる。
茜色に染まる店内で、三者三様の熱い体温と尽きることのない情愛にぎゅっと閉じ込められながら、リリアナは胸いっぱいの幸せに蕩けるように、愛しい殿方たちの腕の中へ身を委ねるのだった。




