茜色の食卓と、四人で結ぶ明日への約束
長椅子の背に預けていた身体をふわりと揺すぶられ、リリアナはゆっくりと瞬きを繰り返した。
窓の向こうは、いつの間にか深い茜色に染まっていた。
王都の屋根瓦を黄金色に縁取る夕暮れの光が、店内の木目をあたたかく照らし出している。
深く、どこまでも甘い眠りから浮上した頭は驚くほど冴え渡り、手足の芯に溜まっていた重怠さは跡形もなく消え去っていた。
「……ん……よく寝たぁ……」
小さく吐息を零して伸びをしようとした瞬間、微動だにせず自分を支えてくれていた温もりに気づき、リリアナの顔が一気に火照った。
右肩には、目を細めて穏やかに微笑むレオナルドの顔があった。
開かれた薬草誌を膝に置いたまま、彼はリリアナの髪を細い指先で優しくすくい上げる。
「目が覚めたかい、リリアナ。とても愛らしい寝息だったよ」
「ずいぶん顔色が良くなったな。……安心した」
正面の絨毯の上でリリアナの足を温め続けてくれていたジークハルトが、大きな掌で彼女の足首をもう一度優しく包み込み、ほっと胸を撫で下ろすように息を吐いた。
「お姉さん、おはよう! ずっと僕の腕の中で寝ててくれたね!」
リリアナの背中にすっぽりと回されていたカミルの腕が、ぎゅっと抱きしめ直される。
金髪の頭が首筋にすりすりと擦り寄せられ、甘えた吐息がくすぐったい。
三人が何時間もの間、姿勢を崩すこともなく、自分を起こさないように静かに寄り添い続けてくれていたのだ。
「皆さん、ずっとこのまま……? 身体が痛くなってしまったでしょうに……!」
リリアナが申し訳なさに身を起こそうとすると、レオナルドが柔らかく彼女の肩を抱き留めた。
「痛むどころか、至福の時間だったよ。君が私たちの腕の中で無防備に微睡んでくれること以上に、満たされる時間などない」
「そうだ。君の体温を肌で感じていられるなら、一日中このままでいても苦ではない」
ジークハルトが力強く頷く。
「ねぇ、お姉さん、お腹空いたでしょ?」
カミルがお腹に手を当てて覗き込んでくる。
言われてみれば、お腹の奥が微かに鳴りそうだった。
昼間の休息のおかげで、身体がすっかり健やかな生命力を取り戻している証拠だった。
立ち上がったリリアナは、厨房の前に並べられた、町の人々からの贈り物の山を見つめた。
瑞々しい玉ねぎや人参、完熟したトマト、大ぶりのじゃがいも、そして職人から届いたばかりの磨き上げられた真新しい銅鍋。
「皆さん、お願いがあります。……今夜の夕食は、私に作らせてくださいませんか?」
三人が反射的に「駄目だ」「休んでいろ」と言いかけたのを、リリアナはふわりと笑って両手で制した。
「病人として横になっている時間はもう終わりです。
それに……料理をして、ハーブの香りに包まれる時間は、私にとって何よりの癒やしなんです。
町の人たちが命を繋いでくれたお礼に届けてくれたこの食材で、私を守ってくださった皆さんに、温かいご飯を作りたいんです」
澄んだ瞳で真っ直ぐに見つめられ、男たちは互いに顔を見合わせると、たまらないといったように揃って息を吐き出した。
「……まったく、君のその頑固で清らかな心には、最初から降伏するしかないな」
レオナルドが銀の瞳を細めて苦笑する。
「分かった。ただし、力仕事や火の番はすべて私たちがやる。君に重いものは持たせない」
ジークハルトが腕まくりをして立ち上がった。
「僕、お野菜を洗うよ! 魔法でぴかぴかにしてあげる!」
カミルも飛び跳ねるように厨房へと駆け込む。
夕暮れの厨房に、再び四人の賑やかな足音が響き始めた。
下町の鍛冶屋が打ってくれた真新しい大鍋に、ジークハルトが汲んできた冷涼な湧き水と、鳥ガラから取った澄んだブイヨンが注がれる。
カミルが丁寧に泥を落とした色とりどりの野菜たち――甘みの乗った人参、ホクホクのじゃがいも、甘い玉ねぎが、ジークハルトの繊細な包丁さばきによって均一な大きさに刻まれていく。
レオナルドは優雅な手つきで、公爵家から届けられた上等な燻製ソーセージを輪切りにし、鍋へと投入した。
リリアナが加えたのは、裏庭で摘んだばかりのフレッシュなローリエの葉と、消化を助けるタイム、そして身体を芯から温める生姜の一片だ。
コトコトと弱火で煮込むうち、厨房いっぱいに野菜の優しい甘みとハーブの爽やかな芳香が立ち上り、鍋の中で黄金色のスープがとろりと揺らめき始めた。
丸テーブルの中央に据えられた大鍋から、湯気が立ち上る。
深皿によそわれた具だくさんのポトフと、パン屋の親父が焼いてくれた香ばしい丸パン、そしてレオナルドが持参した熟成ワインが並んだ。
「さあ、皆さん。召し上がってください」
リリアナの合図とともに、スプーンがスープへと運ばれる。
じっくり煮込まれた野菜はスプーンがすっと通るほど柔らかく、噛み締めた瞬間にじゅわりと濃厚な旨味が溢れ出した。
「……美味いな。身体の奥底まで、染み渡るような滋味だ」
ジークハルトが目を丸くし、噛み締めるように呟く。
「君の手にかかると、素朴な家庭料理が奇跡のような極上の晩餐に変わるね。張り詰めていた心の棘が、一口ごとに溶けていくのが分かる」
レオナルドが至福のため息を零し、銀の瞳を熱く細める。
「お姉さんのポトフ、世界でいっちばん美味しい! 僕、一生この味だけを食べて生きていきたいよ!」
カミルが頬をいっぱいに膨らませながら、満面の笑顔で歓声を上げた。
美味しいものを、大切な人たちと一緒に囲む時間。
前世の記憶が胸に浮かぶ。終電間際のコンビニで買った冷たいパスタを、薄暗い部屋で独りきり、誰とも一言も交わさずに流し込んでいたあの夜。
あの頃の自分が今の光景を見たら、きっと信じられないだろう。
「リリアナ」
レオナルドが静かにグラスを置き、テーブル越しにリリアナの手をそっと握った。
銀の瞳には、夕暮れの茜色と、燃えるような揺るぎない情愛が宿っていた。
「明日からまた、この店を開けるのだろうね」
「はい。まだ完全に体調が戻っていない町の人もいますし……私がこの場所で笑って迎えてあげたいんです」
リリアナが微笑むと、ジークハルトが隣から伸びてきた大きな手で、彼女のもう片方の手を包み込んだ。
「君の意志を尊重しよう。だが、二度と無理はさせん。近衛の兵を常に巡回させ、重い仕込みは私が毎朝手伝いに来る」
「僕も! 毎日お店の温度と空気を管理する結界を張りに来るからね! お姉さんが倒れそうになったら、すぐにお城の僕の部屋へ攫っちゃうんだから」
カミルが身を乗り出し、リリアナの肩にすがりつく。
「君の優しさがこの下町を救い、そして私たちを救ってくれた。
……だが君が倒れてしまっては、私の世界は崩壊してしまう。だから、頼むから私たちに守らせてほしい」
レオナルドがリリアナの指先に熱い唇を落としながら、切ないほど真摯に囁いた。
「私たちは君の番であり、盾であり、君の安らぎを守るための存在なのだから」
ジークハルトの掠れた低音が胸を打つ。
逃げ場のない、けれどあまりにもあたたかい愛の重み。
三者三様の熱い体温と眼差しに包まれ、リリアナの瞳にじわりと幸せな涙が滲んだ。
「……はい。ありがとうございます、皆さん。私、絶対に無理はしませんから」
リリアナが涙を拭い、満開の花のように微笑むと、三人の男たちの顔が一気に至福の歓喜に綻んだ。
窓の外には、静かに夜の帳が降り、満天の星々が王都の夜空を照らし始めていた。
明日からまた、この小さな路地裏で新しい一日が始まる。
けれどもう、一人で抱え込む孤独も、倒れるほどの不安もどこにもない。
愛しい殿方たちと交わした温かな約束を胸に、リリアナの心はどこまでも深く、穏やかな幸福感で満たされていた。




