厨房の小さな大騒動と、三人の特製朝食
階段を下りる足音を忍ばせながら厨房を覗き込んだリリアナは、そこに広がるあまりにも非日常的な光景に、思わず吹き出しそうになった。
国家の最高権力者たちが、わずか数畳ほどの平民の厨房にぎゅうぎゅうに肩を並べ、前代未聞の真剣勝負を繰り広げていたのだ。
「ジークハルト、パンの厚みが不揃いだぞ。一切れごとにミリ単位で食感が変わる。我が家の専属料理長なら即座に解雇されるレベルだ」
腕まくりをしたシャツの袖をきっちり留めたレオナルドが、フライパンの前に立ちながら冷徹な視線を投げる。
その手元では、町の人々から届いた新鮮な卵が、黄金色の完璧なドレープを描くオムレツへと姿を変えつつあった。
「私は兵糧の分配には慣れているが、平民の家庭用の薄刃包丁など握ったことがないのだ。
……だが、リリアナが食べやすいよう、一口大の厚さに切り揃えている最中だ」
ジークハルトは巨大な体躯を極限まで縮こまらせ、下町のパン屋から届いた香ばしい山型パンを、まるで爆弾の信管でも外すかのような真剣な眼差しで切り分けていた。
傍らには、大剣の刃筋を活かして薄く芸術的に剥かれた林檎の皮が、リボンのように美しく積み上がっている。
「二人とも理屈っぽくてうるさーい! ほら、僕の保温魔法でスープは一番おいしい温度にキープできたよ! お皿もぴかぴかに温めてあるんだから!」
カミルが指先から淡い青い光を散らしながら、得意げに胸を張ってスープボウルをテーブルへと運んでいた。
普段は冷徹な仮面を被る筆頭宰相に、戦場を統べる無敵の騎士団長、そして気まぐれな天才魔導士。
世界中の誰が見ても卒倒しそうな顔ぶれが、ただ自分ひとりのために、不慣れな木べらや包丁を握って奮闘しているのだ。
「あの……皆さん、手伝いましょうか?」
リリアナがおずおずと声をかけると、三人が一斉に弾かれたように振り返った。
「リリアナ! 起きてきては駄目だと言っただろう」
「座っていなさい。君に厨房の仕事は一切させん」
「そうだよ、お姉さんは椅子に座って待ってて!」
三口同音に押しとどめられ、リリアナはあれよあれよという間に食堂の丸テーブルへとエスコートされてしまった。
テーブルの上には、町の人々から届いた真心が、三人の手によって最高級の朝食へと仕立て上げられて並んでいた。
レオナルドが焼き上げた、とろりと半熟の黄金色に輝くハーブオムレツ。
ジークハルトが切り分けた、こんがりと香ばしい厚切りトーストと瑞々しい果物の盛り合わせ。
そしてカミルが温め直した、野菜たっぷりの優しいスープ。
「さあ、リリアナ。召し上がれ。君の口に合えばいいのだが」
レオナルドが優雅に椅子を引いてくれ、ジークハルトが温かいおしぼりを手渡し、カミルが隣の席へと滑り込んでくる。
リリアナは胸いっぱいの感謝を込めながら、フォークでオムレツを一口すくった。
ふんわりとした卵のコクの中に、微かに効かせたタイムの清涼感が広がり、驚くほど上品な味わいが舌の上でとろけていく。
「……すごく美味しいです、レオさん!まるでお城の晩餐会に出てくるようなお味です」
「ふ……君に褒めてもらえるなら、毎朝フライパンを握っても構わないよ」
レオナルドの銀の瞳が、蕩けるような甘い歓喜に染まる。
「リリアナ、このパンも食べてみてくれ。下町の蜂蜜をたっぷり塗っておいた」
ジークハルトが香ばしいトーストをリリアナの口元へと差し出してきた。
ぱくりと頬張ると、外はカリッと、中は驚くほどもっちりとした生地から小麦の芳醇な香りが広がり、濃厚な野花蜜の甘みがじわりと染み出す。
「ジークハルトさん、パンの焼き加減も完璧です。果物も甘くて美味しい……」
「そうか……よかった。君が美味しそうに食べてくれる姿を見るだけで、胸が熱くなる」
無骨な騎士団長が、耳の先端を真っ赤にして相好を崩した。
「お姉さん、僕のあーんも! 一番甘いイチゴ、僕の手から食べて!」
カミルが待ちきれない様子で真っ赤なイチゴを差し出してくる。
一口で受け止めると、カミルは満面の笑みを咲かせ、リリアナの肩にすりすりと頭を預けてきた。
前世での朝を思い出す。
鳴り響くアラームに怯えながら起き上がり、メイクを急ぎ、満員電車に駆け込む途中でコンビニのゼリー飲料を流し込むだけだった、無機質な朝。
誰と言葉を交わすこともなく、「今日も怒られないように」と息を潜めていたあの日々。
それが今、あたたかい朝の光が差し込む部屋で、世界で一番自分を大切にしてくれる人たちと、笑い合いながら温かい朝食を囲んでいる。
「……ふふ、なんだか夢みたい」
思わず零れたリリアナの呟きに、レオナルドが優しく目を細め、彼女の空いた指先をそっと絡め取った。
「夢ではないよ、リリアナ。これが君の居場所であり、私たちの日常だ」
レオナルドの長い指が、リリアナの手の甲を慈しむように撫でる。
「君が私たちに教えてくれた温もりを、今度は私たちが君に返していく番なのだから」
「ああ。君が笑ってこの店にいてくれるなら、私は何があっても君を守り抜く。……この朝の時間を、永遠に失いたくない」
ジークハルトが深く、祈るような声で言葉を重ねる。
「僕もずっと一緒! お姉さんの隣は僕の特等席なんだからね!」
カミルが腕をぎゅっと抱きしめてくる。
三者三様の熱い体温と、惜しみない情愛。
窓の外からは、下町の活気を取り戻した人々の朗らかな声と、爽やかな初夏の風が吹き込んできた。
小さな路地裏の店内で、四人が紡ぎ出す穏やかで甘い幸せの時間は、どこまでも深く、温かく続いていくのだった。




