朝の目覚めと、下町からの恩返し
東の空が白み始め、窓枠の隙間から朝露の香りを帯びた柔らかな光が差し込んでいた。
リリアナがゆっくりと瞬きをして目を覚ますと、全身を包んでいた鉛のような重怠さはすっかり消え去り、驚くほど身体が軽くなっていた。
ジークハルトの入念な揉みほぐしと、レオナルドが食べさせてくれた滋養粥、そしてカミルが夜通し保ってくれた清涼な結界のおかげだろう。
(……よく眠ったわ。前世も含めて、こんなに深く安らかに眠れたことなんてなかったかもしれない)
小さく伸びをしようとしたリリアナは、しかし、身動きが取れないことに気づいて息を呑んだ。
腰にはカミルの腕がしっかりと回され、金色の巻き毛がリリアナの胸元に埋まっている。
すやすやと規則正しい寝息を立てる王弟殿下は、まるで宝物を抱きしめて離さない子猫そのものだ。
寝台の端には、上着を脱いだシャツ姿のレオナルドが浅く腰掛け、リリアナの手を自らの両手で包み込んだまま、微睡んでいた。
銀の長い睫毛に朝の光が落ち、冷徹な宰相の面影など微塵もない、無防備な寝顔がそこにある。
そして寝室の扉の前では、床に背を預けて座っていたジークハルトが、リリアナの身じろぎの気配を察した瞬間に、弾かれたように琥珀色の目を開いた。
「リリアナ……! 気がついたか」
足音を忍ばせ、大きな身体を屈めて寝台の脇へ駆け寄ってくるジークハルト。
その瞳には、寝ずの番を務めた疲労の色など微塵もなく、ただリリアナの無事を確認できた歓喜だけが揺れていた。
「ジークハルトさん……おはようございます。私ならもうすっかり元気です。ずっと起きていてくださったのですか?」
「君の無事な寝息を聞いているだけで、眠気など吹き飛んでいた。……熱も完全に引いたな」
ジークハルトの手袋を外した大きな掌が、リリアナの額にそっと触れる。
その無骨で温かな感触に、リリアナの心がじんわりと蕩けていく。
「んぅ……お姉さん、起きちゃったの……?」
二人のささやき声に目を覚ましたカミルが、目を擦りながらリリアナの首筋にすりすりと額をこすりつけてきた。
「まだ起きちゃダメぇ……もっと僕をぎゅってしてて……」
「カミル、いつまで彼女の胸元に顔を埋めている気だい」
低く艶やかな声が響き、レオナルドが銀の瞳を細めてカミルの襟首を優しくつまみ上げた。
「おはよう、リリアナ。顔色が薔薇色に戻っていて安心したよ」
レオナルドはリリアナの手の甲へ、流れるような所作で朝の口づけを落とした。
「だが、起き上がるのはまだ早い。今日の営業は休業にすると、すでに張り紙を出させてある」
「えっ!? 休業ですか? でも、まだ体調を崩している町の人たちが……」
慌てて身を起こそうとするリリアナだったが、三人は揃って首を横に振った。
「その心配は無用だ」
ジークハルトが窓の外を指差す。
「階下を見てみるといい」
促されるまま、リリアナはレオナルドに肩を支えられながら窓辺へ歩み寄り、通りを見下ろした。
そこに広がっていた光景に、リリアナは思わず息を呑んだ。
早朝の路地裏には、昨日とは打って変わって穏やかな空気が流れていた。
近衛兵たちの誘導によって街水路の清掃が進み、淀んでいた悪臭は消え失せている。
そして何より、『緑の天幕亭』の店先には、入りきらないほど大量の木箱や籠が山のように積み上げられていたのだ。
焼きたての香ばしい丸パン、朝採れの瑞々しい野菜や果物、産みたての卵に、職人が打った頑丈な銅製の鍋。
それぞれの荷物には、不格好ながらも心のこもった文字で手紙が添えられていた。
『リリアナさんのおかげで、爺さんの熱が下がりました。うちの畑の一番甘いトマトです』
『命の恩人のお嬢ちゃんへ。元気になったら、このパンを食べておくれ』
『昨日のスープの美味さは一生忘れねえ。店の修繕ならいつでも呼んでくれ』
「町の人たちが……こんなにたくさん……」
胸がいっぱいになり、リリアナの目元にじわりと涙が滲んだ。
前世では、どれほど身を粉にして働いても、返ってくるのは「やって当然」という冷たい視線と、新たな業務の山だけだった。
自分の健康や時間を差し出しても、誰もその痛みに気づいてなどくれなかった。
けれど、この路地裏で紡いできた温もりは、ちゃんと人々の心に届いていたのだ。
「君の優しさが、この下町の民を救ったんだ。彼らもまた、君に生かされた恩を返したくてたまらないのさ」
レオナルドがリリアナの肩を引き寄せ、優しく耳元で囁く。
「昨日運ばれた者たちは、君の補水液とスープのおかげで全員峠を越えたと報告が入っている。……リリアナ、君は私の誇りだ」
ジークハルトが逞しい腕でリリアナの腰を包み込み、深く頷いた。
「お姉さんは王都の英雄なんだよ!
……でもね、今日はお姉さんは何もしちゃダメ。
僕たちが、あの美味しいパンと果物で、世界一の朝ごはんを作ってあげるからね!」
カミルがリリアナの手を引っ張り、満面の笑顔で胸を張った。
「私が厨房に立とう。卵料理なら、公爵家のレシピを完璧に再現してみせる」
「パンの切り分けと果物の皮剥きは私がやろう。刃物の扱いなら任せてくれ」
「僕は特製の保温魔法でスープを温め直すね!」
国を動かす最高峰の男たちが、平民の狭い厨房へ嬉々として降りていく。
階段の向こうから聞こえてくる賑やかな足音と、階下から漂い始めた香ばしいトーストの匂い。
窓から差し込む初夏の光を浴びながら、リリアナは胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
孤独にすり減っていた過去の自分に、教えてあげたい。
あなたの優しさを心から受け止め、何倍もの愛で包み込んでくれる大切な居場所が、ちゃんとここにあるのだと。
満ち足りた幸福の涙を指先で拭い、リリアナは愛しい殿方たちが待つ厨房へと、軽やかな足取りで向かうのだった。




