王都の夏風邪騒動と、路地裏の救護所
ルミナス湖畔の甘やかな避暑の時間は、王都から飛来した一羽の早馬ならぬ魔導伝書鳥によって、突如として幕を下ろすこととなった。
王都を記録的な酷暑が襲い、湿った熱気が街水路に滞留した結果、重い悪寒と発熱を伴う「夏風邪」が下町を中心に爆発的な広がりを見せているという。
街の診療所は溢れ返り、薬草の買い占めや物資の不足によって、体力の乏しい老人や子供、日雇い労働者たちが次々に倒れているとの凶報だった。
「――すぐに王都へ戻りましょう」
テラスで報告を聞いたリリアナは、迷うことなく立ち上がった。
避暑の贅沢な時間を惜しむ気持ちなど微塵もなかった。
「リリアナ、王都は今や熱病の巣窟だ。君をそんな危険な場所へ連れて帰るわけにはいかない」
ジークハルトが太い眉を寄せ、琥珀色の瞳に強い懸念を滲ませて押しとどめようとする。
「ジークハルトの言う通りだよ。君の身の安全が最優先だ。必要な医薬品や物資の手配なら、私がここから全権を振るって指示を出せば事足りる」
レオナルドもまた、銀の瞳を痛ましげに細めてリリアナの手を包み込んだ。
「お願いです、レオさん、ジークハルトさん」
リリアナは二人の手を両手でぎゅっと握り返し、まっすぐにその瞳を見つめた。
「手配された薬が届くまでの間にも、現場では脱水や胃腸の衰弱で命を落とす人が出ます。
酷暑の夏風邪には、単なる解熱薬ではなく、水分と塩分、そして消耗した胃腸を動かす滋養が必要です。
……私の店には、そのためのハーブと仕込みがあります。
見過ごすことなんて、絶対にできません」
前世の記憶が胸を灼く。八月の猛暑の中、夏風邪をこじらせて脱水症状になり、意識朦朧のまま満員電車で倒れた自分。
目覚めた駅の医務室には誰もおらず、冷めたペットボトルの水と、上司からの「いつ戻れるのか」という無機質なメッセージだけが残されていた。
あの冷たい孤独と乾きを、自分の知る下町の人々に味わわせたくはなかったのだ。
真剣そのもののリリアナの横顔を見つめ、レオナルドは深い息を吐き出すと、ふっと観念したように微笑んだ。
「……まったく、君には敵わないな。分かった。だが、決して無理はさせない。私たちの完全な保護下にあることを条件としよう」
「ああ。君の髪の毛一本すら、病魔にも無礼者にも触れさせん」
「僕も! お姉さんのためなら王都まるごと冷やしてあげる!」
カミルの空間転移魔法を使い、四人は瞬時に『緑の天幕亭』の裏庭へと帰還した。
別荘の冷涼な空気から一転、扉を開けた王都は息が詰まるほどの蒸し風呂だった。
普段なら活気にあふれる路地裏はしんと静まり返り、閉ざされた窓の奥から苦しげな咳払いや呻き声が漏れ聞こえてくる。
「開店準備を急ぎましょう!」
リリアナが腕まくりをした瞬間、国を統べる男たちの規格外の支援が発動した。
「ジークハルト、下町の各街区へ近衛の工兵隊を回せ。清潔な湧き水を大樽で店へ運び込ませるんだ」
「承知した。閣下は公爵家の食糧庫から滋養のつく鶏肉と岩塩、最高級の蜂蜜を供出願いたい。
……店の周囲の警備は我が直属の精鋭で固め、暴動や押し寄せを防ぐ」
「任せろ。カミル、君は店内の環境を完璧に管理しろ」
「言われなくても! 空間清浄と冷却の複合結界、起動!」
カミルが指先を鳴らすと、淡い青の魔導光が『緑の天幕亭』とその前の路地一帯をふわりと包み込んだ。
瞬く間に淀んだ熱気と悪臭が吹き払われ、高原の木陰のような清涼で澄んだ風が路地に満ちていく。
リリアナは厨房の大鍋に火をかけ、二つの命綱を仕込み始めた。
一つは、『蘇生の水』と名付けた特製の冷製補水液。
熱を冷ますペパーミントと体力を補うハイビスカスの煎じ汁に、ミネラル豊富な天然岩塩を微量溶かし、生姜の搾り汁と野花蜜で味を調えたものだ。
脱水で乾ききった身体に、すっと染み渡るように吸収されていく。
もう一つは、弱った胃腸を底から温める『薬膳チキンハーブスープ』
鶏ガラから取った澄んだ出汁に、解熱と発汗を促すエルダーフラワーとタイム、胃の粘膜を保護するリコリス(甘草)、そして細かく刻んだ生姜と蕪をじっくり煮込んだ滋味あふれるスープである。
店先に天幕が張り出され、「体調を崩された方はお立ち寄りください」の札が掲げられると、噂を聞きつけた町の人々がおずおずと集まり始めた。
「リリアナさん……本当に、いいのかい……?」
額に濡れ手ぬぐいを乗せた鍛冶屋の親方が、荒い息を吐きながらやってくる。
「ええ、親方。まずはこの冷たいお水をゆっくり飲んでください。それから、少しずつこの温かいスープをお腹に入れて」
手渡された竹筒のハーブ水を一口飲んだ瞬間、親方の濁っていた目が丸くなった。
「……う、美味い……! 乾ききっていた喉の奥に、水が染み込んでいく……!」
続いて温かいスープを啜ると、強張っていた胃がじんわりと温まり、吹き出すような良い汗とともに、鉛のように重かった四肢の強張りがみるみる解けていった。
「身体が……軽くなる……! 熱で割れそうだった頭が、嘘みたいにすっきりしてきたぞ……!」
広がる安堵の輪。近衛騎士たちが整然と列を誘導し、運ばれてくる重症者にはカミルの冷却魔法が施され、リリアナの手から温かなスープと水が手渡されていく。
「ありがとう、お嬢ちゃん……! 診療所の薬も手に入らなくて、もう駄目かと思ったよ……」
涙を流して手を合わせる老夫婦に、リリアナは慈愛に満ちた笑顔を返した。
「大丈夫ですよ。今夜は涼しい部屋で、ゆっくり汗を拭いてお休みくださいね」
かつて、冷え切った都会で誰も差し伸べてくれなかった温かい手。
それを今、自分の手で路地裏の人々へ届けることができている――その確かな手応えに、リリアナの胸は満たされていた。
だが、夕闇が迫り、行列が途切れた頃、リリアナの足元がふらりと微かに揺らいだ。
一日中火の前に立ち続け、配食を続けた疲労が、一気に押し寄せてきたのだ。
「――リリアナ!」
倒れかけるよりも早く、背後から伸びてきた逞しい腕が、彼女の身体をすくい上げるように軽々と抱き留めた。




