魔導花火の夜空と、王弟の甘い口づけ
ルミナス湖の夜は、王都のそれとは比べものにならないほど深く、静謐だった。
満天の星々が鏡のような湖面に映り込み、昼間の熱気は完全に消え去って、針葉樹の香りを孕んだ冷涼な夜風が肌を心地よく撫でる。
夕食後、レオナルドが公爵領の緊急報告書に目を通し、ジークハルトが邸の周囲の最終点検に出た僅かな合間を縫って、リリアナの部屋のテラスの扉がコトコトと鳴らされた。
「お姉さん、起きてる? こっち、こっちだよ!」
現れたのは、金髪を夜風に遊ばせ、青い瞳を爛々と輝かせたカミルだった。
普段の華美な魔導礼装ではなく、夜闇に溶け込むような濃紺の軽やかなチュニックを着ている。
彼はリリアナが返事をするよりも早くその華奢な手首を引くと、足音を忍ばせて館の裏手へと連れ出した。
「カミルさん、どこへ行くんですか? もう夜も遅いですし、冷えてきますよ」
「いいから、僕についてきて! 今日はずっとジークハルトとお馬に乗ってたでしょ? 今夜は絶対に僕が、世界で一番綺麗な景色をお姉さんにあげるんだから」
駆け足で案内されたのは、湖へ向かって長く突き出た木造の桟橋の突端だった。
足元には黒曜石のように澄んだ湖水が広がり、周囲には二人の吐息とさざ波の音以外、何も聞こえない。
桟橋の先端に立ち止まると、カミルは誇らしげに胸を張り、リリアナの目の前に立った。
「昼間、研究室の出張所で作ってたのはこれなんだ。……お姉さん、空を見ててね」
カミルが細い指先を夜空へと掲げ、パチンと鳴らした。
その瞬間、ヒュルルと微かな風切り音とともに、無数の淡い光の帯が湖面から天へと駆け上がった。
次の刹那、漆黒の夜空いっぱいに咲き誇ったのは、火薬の煙も耳を劈く轟音もない、息を呑むほど幻想的な『光の華』だった。
「わあ……っ!」
リリアナは思わず息を呑み、胸の前で両手を握りしめた。
赤や金、薄紫に青と、次々に夜空に開く大輪の火花。驚くべきことに、その光の粒子は散って消えるのではなく、夜空の中でゆっくりと形を変えていく。
カモミールの可憐な白い花弁、ミントの柔らかな葉、そしてリリアナが大好きなラベンダーの穂先。
光のハーブたちが満天の星空を埋め尽くし、湖面には上下を失うほどの眩い光の海が映し出されていた。
「これ、僕が開発した『静音魔導花火』だよ。大きな音でお姉さんの耳が痛くならないように、火薬の代わりに光属性と精霊の燐光を編み込んだの。
……花が散る瞬間に、ほんのり甘い香りがするでしょ?」
見上げれば、夜空から光の粉とともに、微かにバニラと夜咲き草の甘やかな芳香がふわりと降り注いでいた。
前世の記憶が鮮明に蘇る。夏の夜、残業帰りの駅のホームの隙間から、遠くのビルの谷間に見えた小さな花火。
浴衣を着て楽しそうに歩く人々を横目に、重いノートパソコンの入った鞄を抱え、「私には縁のない世界だ」と俯いて足早に立ち去ったあの孤独な夏。
それが今、国で最も尊い天才魔導士が、轟音に怯える自分を気遣い、自分ひとりのためだけに夜空を薬草園の光で埋め尽くしてくれている。
「綺麗……本当に、夢みたいです。ありがとう、カミルさん」
リリアナが感動に瞳を潤ませ、花が綻ぶように微笑みかけたその時だった。
「お姉さん」
低く、普段の無邪気さからは想像もつかないほど落ち着いた声が鼓膜を打った。
カミルが光の散る夜空から視線を戻し、リリアナを一心に見つめていた。
その青い瞳の奥に宿っていたのは、甘えたがる少年の瞳ではなく、獲物を射すくめるような雄の光だった。
カミルはリリアナの手を取り、自らの胸元へと引き寄せた。
薄いチュニック越しに伝わってくる鼓動は、驚くほど速く、力強い。
「僕のこと、まだ可愛い弟みたいに思ってるでしょ」
「え……?」
「ジークハルトみたいに逞しい身体もないし、レオナルド閣下みたいに大人びた駆け引きもできない。
だから、お姉さんは僕を一番には見てくれないんじゃないかって……ずっと怖かった」
カミルはリリアナの手の甲へそっと唇を寄せると、視線を逸らさずに一歩間合いを詰めた。
桟橋の手すりに背中を預けさせられ、逃げ場を塞がれる。
カミルの金髪が夜風に乱れ、湖面に反射する魔導花火の光を受けて、妖しいほど美しく輝いていた。
「でもね、僕はお姉さんの弟になりたいわけじゃないんだ。……一人の男として、お姉さんの心が欲しい」
吐息が触れ合うほどの至近距離で囁かれる熱烈な情動。
リリアナが息を呑んだ瞬間、カミルは彼女の細い後頭部にそっと手を滑り込ませた。指先が髪の隙間に絡みつき、逃げ道を完璧に封じ込める。
「僕を、子供扱いしないで」
掠れた囁きとともに、重なり合ったのは柔らかく、熱い唇だった。
「ん……っ」
手の甲や頬への口づけとはまるで違う、吸い付くように深くて甘美な口づけ。
カミルの唇はリリアナの吐息を奪い、驚きに微かに開いた唇の隙間から、躊躇うことなく熱を注ぎ込んでくる。
無邪気さを完全に脱ぎ捨てたその熱情に、リリアナの頭の中は真っ白になり、足の力がふっと抜けそうになった。
倒れそうになった身体を、カミルのもう片方の腕が引き寄せ、自らの細くしなやかな腰へと隙間なく密着させる。
抱きしめる力は驚くほど強く、到底抗うことなどできない。
頭上で静かに降り注ぐ光の粒子と、水面を渡る涼やかな風。
けれど二人を包む空気だけは、狂おしいほどの熱気で満たされていた。
ようやく唇が名残惜しそうに離された時、カミルは上気したリリアナの唇を、己の親指でそっと愛おしそうに撫でた。
その青い瞳は熱く潤み、けれど勝ち誇ったような艶めかしい笑みを浮かべていた。
「……お姉さんの息、甘くてすっごく美味しい」
「カ、カミル……さん……っ」
リリアナが赤面し、胸元を押さえて肩で息をすると、カミルはリリアナの首筋に額をこすりつけ、甘えるように、けれど逃がさない強さで抱きしめ直した。
「これで分かったでしょ? 僕だって、お姉さんを狂おしいほど抱きしめたい男なんだよ。……今夜はもう、僕以外の男のことなんか考えさせないから」
耳元に落ちる甘い独占欲の囁きに、心臓の跳ねる音が止まらない。
静かな湖畔の夜空に咲き誇る幻想的な光の下、甘やかされ、熱烈に愛される痺れるような幸福感に包まれながら、リリアナはカミルの背中にそっと手を回し、その熱い体温に身を委ねるのだった。




