騎士団長との乗馬レッスンと、逞しい腕の温もり
ルミナス湖を渡る朝の風が、なだらかな丘に広がるエメラルドグリーンの草原を波立たせていた。
別荘の裏手に広がる放牧場に現れたジークハルトは、いつもの厳めしい甲冑を外し、体にぴったりと沿った黒の乗馬用ズボンに、袖を捲り上げた深緑のシャツという軽装だった。
鍛え抜かれた太い腕と浮き出た血管が初夏の光に晒され、立っているだけで野性味あふれる覇気を放っている。
その隣には、毛並みが白銀のように輝く、一頭の気品ある牝馬が佇んでいた。
「リリアナ、支度はできたか?」
振り返ったジークハルトの琥珀色の瞳が、歩み寄ってきたリリアナを捉えた瞬間、熱っぽく見開かれた。
リリアナが身につけていたのは、公爵家の侍女が用意してくれた動きやすい乗馬服――仕立ての良いベージュのキュロットスカートに、淡い若草色のベスト。
普段の木綿のエプロン姿とも、宮中の豪奢なドレスとも違う、活動的で愛らしい佇まいだった。
「あの……おかしな格好ではないでしょうか? 乗馬なんて、前世でも観光牧場の引き馬を一度体験したくらいで……」
「おかしいどころか、言葉を失うほど愛らしい。……あまりの可憐さに、馬に乗せることすら躊躇われるほどだ」
ジークハルトは低く喉を鳴らすと、手袋を外した大きな掌でリリアナの頭をそっと撫でた。
「この馬は『スノウ』という。我が家の血統で、驚くほど賢く温厚な気性だ。絶対に暴れたり振り落としたりはしない。
……だが、君に怪我をさせるわけにはいかないからな。手ほどきは私が最初から最後まで付き添う」
「はい、よろしくお願いします。ジークハルトさん」
リリアナが緊張を滲ませて頷いた、その直後だった。
ジークハルトは鐙に足をかける間もなく、リリアナの細い腰に両手を添えると、羽毛でも扱うかのように軽々と宙へと抱き上げた。
「きゃっ……!?」
「驚かせてすまない。足元が不安定だろう」
革張りの鞍の上にそっと降ろされる。
視界が一気に高くなり、リリアナが思わず手綱を強く握りしめて身体を強張らせると、すぐ背後からずしりとした重みと熱気が押し寄せてきた。
ジークハルトがひらりと身を躍らせ、リリアナの真後ろへと跨がったのだ。
「えっ……ジークハルトさん!?」
「一人で乗せるのは危険だ。……こうしていれば、万が一にも落ちることはない」
言い訳めいた低音は、どこか甘く掠れていた。
背中に隙間なく押し当てられたのは、岩のように分厚く硬い胸板。
リリアナの華奢な背中がすっぽりと覆い隠され、彼の逞しい両腕が左右から伸びて、手綱を握るリリアナの両手を上から包み込んだ。
タコだらけの熱い掌と、手袋越しではない素肌の体温。
触れ合う場所から火が点くように熱気が立ち上り、リリアナの心臓は早鐘を打ち始めた。
「……背筋を伸ばし、肩の力を抜いてくれ。私の胸に体重を預けていい」
「で、でも、重たくありませんか……?」
「馬鹿を言うな。君の身体など、風が吹けば飛んでいきそうなほど軽い。むしろ、もっと重みを感じたいくらいだ」
耳元に触れそうな距離から落ちてくる吐息に、うなじの産毛が逆立つ。
ジークハルトが軽く手綱を引いて舌を鳴らすと、白馬スノウがゆっくりと歩みを進め始めた。
パカラン、パカランとリズミカルに蹄の音が響き、視界が開けていく。
湖を見下ろす高台の草原を吹き抜ける涼風が、二人の髪を揺らした。
前世では、満員電車に揺られて酸素の薄い車内で吊り革にしがみつき、誰の温もりにも触れられずに通勤していた。
それが今、目の前には息を呑むような大自然が広がり、背後からはこの国で最も強い男が、命を賭して守るように全身で抱きしめてくれている。
「すごい……! 風がとても気持ちいいです、ジークハルトさん!」
「ああ、良い景色だな。……だが、私には前を見る余裕があまりない」
ジークハルトの声は低く、苦しげな色を帯びていた。
ふと気づけば、手綱を握る彼の腕の力が強まり、リリアナの腰を抱き寄せるようにして、さらに密着度を深めていた。
「ジークハルトさん……?」
「手綱を握る君の小さな手が、私の指の隙間に収まっている。
……背中から伝わる君の心音、揺れるたびに香る甘いハーブの匂い。
そのすべてが、私の理性を焼き切ろうとしている」
無骨な顎が、リリアナの肩口へと預けられた。
首筋に熱い息が吹きかけられ、リリアナの身体がびくりと震える。
「王都にいるときは、部下たちの手前、立場を弁えねばと自分を律していた。
だが……ここでは、私はただの男だ。
君を誰の手の届かない場所へ連れ去り、この腕の中に永遠に閉じ込めてしまいたい」
琥珀色の瞳が至近距離でリリアナを見つめていた。
戦場で数多の敵を震え上がらせてきた猛将の瞳に宿っているのは、飢えた獣のような激しい独占欲と、切ないほど純粋な情愛だった。
「リリアナ、私は生涯をかけて君の盾となり、剣となる。
君が望むなら、騎士団長の地位など捨てて君だけの番になってもいい。
……頼むから、私を置いていかないでくれ」
ジークハルトは手綱を片手にまとめると、空いた右手でリリアナの顎をそっと持ち上げ、その赤く火照った頬へと熱い唇を落とした。
皮膚を吸い上げるような、深く、狂おしい口づけ。
「んっ……ジークハルト、さん……」
馬の揺れと、背中から注ぎ込まれる圧倒的な熱気。
逃げ場のない逞しい腕の中で、リリアナの頭は真っ白に蕩けていく。
前世で独りぼっちで抱えていた孤独や不安など、この不器用で情熱的な騎士の温もりの前には、一欠片も残されていなかった。
湖畔の丘に広がる初夏の陽光の下、二人の乗る白馬は、誰にも邪魔されない甘やかな時間を乗せて、どこまでも静かに歩みを進めていくのだった。




