公爵家の別荘と、湖畔のプライベートテラス
王都の喧騒と猛暑を乗せた風は、北の山並みを越えるにつれて、澄み切った冷涼な森の息吹へと姿を変えていった。
馬車に揺られること半日。
辿り着いたルミナス湖のほとりは、息を呑むほど美しい白銀と碧の世界だった。
鏡のように静まり返った湖面には針葉樹の緑と抜けるような青空が映り込み、標高の高さゆえに、初夏とは思えないほど心地よい涼風が肌を優しく撫でる。
湖畔の高台に佇む公爵家の別荘は、白大理石を基調とした優美な洋館だった。
豪奢でありながら周囲の原生林と見事に調和し、王都の貴族邸のような息の詰まる格式高さは微塵も感じられない。
「……すごい。絵画の中に迷い込んでしまったみたい」
馬車を降りたリリアナが思わず感嘆の声を漏らすと、荷物を降ろしていたジークハルトが満足げに目を細めた。
「気に入ってもらえて何よりだ。まずは私が周囲の防衛結界の巡回と、裏手の乗馬コースの安全確認を済ませてこよう。……リリアナ、少しの間離れるが、何かあればすぐに呼ぶといい」
「うん、僕も! 部屋に置く特製冷風魔導具の調整をしてくるね! お姉さんが一番涼しく眠れるように完璧にしておくから!」
カミルも弾む足取りで別荘の二階へと駆け上がっていった。
二人がそれぞれの役目のために席を外し、静寂が戻った湖畔の邸で、レオナルドがリリアナの前へと優雅に歩み寄った。
「さあ、おいで、リリアナ。君に見せたい場所があるんだ」
差し出された細く白い手を取ると、レオナルドは彼女を館の奥へと導いた。
案内されたのは、湖へ向かってせり出すように造られた、広々としたプライベートテラスだった。
真っ白な手すりの向こうには、どこまでも広がる碧い湖面がパノラマのように広がっている。
日除けの白い天幕がそよ風に揺れ、誰の視線も届かない、完全に二人きりだけの孤立した楽園だった。
「わあ……! 水面がすぐそこに見えます」
「君に一番見せたかった景色だ。王都の熱気も、煩わしい宮廷の陰謀も、ここには何一つ届かない」
レオナルドはテラスの丸テーブルの椅子を自ら引き、リリアナを腰掛けさせた。
そして、給仕の手を借りることなく、自らの手でガラスのピッチャーを持ち上げた。
注がれたのは、別荘の冷涼な湧き水に、朝摘みのブルーベリーと薄荷の葉を浮かべた冷たい果実水だった。
「どうぞ。長旅で喉が渇いただろう」
「ありがとうございます、レオさん。……公爵閣下に給仕をさせてしまうなんて、平民としては恐縮してしまいますけれど」
リリアナがくすりと笑いながらグラスを口に含むと、透き通った冷たさとベリーの微かな酸味が喉を滑り落ち、身体の奥に籠もっていた旅の熱がすっと消えていった。
前世の記憶がふと頭をかすめる。
夏休みなど名ばかりで、炎天下の東京で汗だくになりながら顧客への謝罪回りをし、冷房の効きすぎたコンビニのイートインで冷めたお茶を啜っていたあの頃。
有給休暇を申請することすら「周囲への甘え」だと責められるように感じていた自分が、今、この世界の頂点に立つ男の手で、まるで高貴な姫君のように大切にもてなされている。
向かいに座るはずのレオナルドは、迷うことなくリリアナのすぐ隣の椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
普段の隙のない三つ揃えを脱ぎ、胸元のボタンを寛げた薄手の白リネンシャツ姿。
風に揺れる濃紺の髪と、湖面の光を反射してきらめく銀の瞳が、息を呑むほど艶めかしい。
「……ようやく、君と二人きりになれた」
レオナルドは低く掠れた声で囁くと、テーブルの上に置かれたリリアナの柔らかな手をそっとすくい取った。
手袋を外した素肌の指先が絡め合わされ、熱い吐息が触れ合う距離まで顔が近づけられる。
「王都にいると、常に何者かの視線がある。君を奪い去りたい衝動を抑えるだけで、私の神経は擦り切れてしまいそうだったよ」
「レオさん……」
「ジークハルトもカミルも、君のためを想う気持ちに偽りはない。
だが……私にとって君は、暗闇の底でただ一人、凍え死にそうだった魂に火を灯してくれた唯一無二の光なのだ」
銀の瞳が濡れたように細められ、切ない情熱が露わになる。
レオナルドはリリアナの手のひらを己の頬へと押し当て、慈しむようにすり寄せた。
ひんやりとした湖風の中で、彼の肌の温もりだけが驚くほど熱く伝わってくる。
「君が淹れてくれる茶の温かさ、厨房で笑う横顔、疲れ果てた私を受け止めてくれる小さな膝……
そのすべてが、私の生きる理由になってしまった。
……リリアナ、私はもう、君なしの人生など想像することすらできない」
普段の冷徹な宰相の仮面を完璧に脱ぎ捨て、ただ一人の男として捧げられる、剥き出しの執着と愛の告白。
心臓を直接揺さぶられるようなその重みに、リリアナの胸は甘い痺れでいっぱいになった。
「レオさん……私、ただの元会社員で……いえ、ただの路地裏の店主ですよ? 何の力も持たない私が、レオさんのそんな大きな重荷を受け止めきれるのか、時々不安になるんです」
リリアナが素直な胸の内を吐露すると、レオナルドは愛おしさに堪らないといったように目を細め、身を乗り出した。
長い腕がリリアナの華奢な肩を抱き寄せ、そのまま彼女の額へと、優しく、深く唇を落とす。
「君は何一つ背負う必要などない。君がそこにいて、ただ笑って私の名を呼んでくれる……それだけで、私の世界はすべて救われているのだから」
囁きとともに、唇が額から目元へ、そして熱く上気したリリアナの頬へと滑り落ちていく。
逃げ場を塞ぐように引き寄せられたレオナルドの胸板から、激しく打つ鼓動がリリアナの肌へと直接響いてきた。
知的な宰相の仮面の下で、彼もまた、自分と同じように激しく熱情を高鳴らせているのだと知って、リリアナの胸の奥がきゅんと甘く締め付けられた。
「リリアナ、この避暑の間、君の時間を少しでも多く私に預けてほしい。
……誰にも邪魔されず、君を心ゆくまで甘やかす権利を、私にくれるかい?」
水面を渡る初夏の涼風が、二人の重なり合う影を優しく包み込んでいく。
碧い湖のほとり、誰も知らないプライベートテラスで、リリアナは赤くなった頬をレオナルドの胸元へとそっと預け、幸せなため息とともに小さく頷くのだった。




