温かなミルクと、甘えたがりの天才魔導士
秋風がからりと乾いた落ち葉を舞い上げる、穏やかな昼下がりのことだった。
近頃の『緑の天幕亭』の周辺は、近衛騎士団の巡回ルートに組み込まれたらしく、絵に描いたような屈強な騎士たちが頻繁に通りを行き交うようになっていた。
時折、その先頭に立つジークハルトが鋭い視線を周囲に配りつつ、店の窓辺に立つリリアナと目が合うと、途端に耳を真っ赤にしてぎこちなく敬礼していく。
その微笑ましい姿にリリアナがくすりと笑みを零していた、まさにその時だった。
ガタガタ、と店の裏口の勝手口から不穏な物音が響いた。
泥棒か野良猫かと身構えながらリリアナが裏口の鍵を開けると、外から勢いよく倒れ込んできた柔らかい重みが、彼女の胸元へと飛び込んできた。
「きゃっ……!?」
抱きとめる形になった腕の中にいたのは、陽だまりのような淡い金髪を乱した、見目麗しい青年だった。
陶器のように滑らかな白い肌に、宝石のように透き通った群青色の瞳。
まるで絵画から抜け出してきた天使のような顔立ちをしている。
だが、身に纏っている仕立ての良さそうな濃紺のローブはあちこちが薬品で変色し、袖口にはインクの染みが点々と広がっていた。
髪を束ねている上質なリボンも解けかけており、全身から「限界」の二文字が立ち上っている。
「うぅ……お腹すいた……頭が割れるように痛い……。何か、甘くて……頭が破裂しないものをちょうだい……」
青年はリリアナの肩に額を押し当てたまま、消え入りそうな声で呻いた。
その様子を見て、リリアナは前世で目にした光景を瞬時に思い出した。
納期直前、三日三晩研究室や開発室に籠もりきりでエナジードリンクの空き缶を積み上げていた、あの天才エンジニアたちの姿そのものである。
(これは……極度の血糖値低下と、過度の脳疲労ね)
この世界風に言えば、魔力を限界まで使い果たして神経が過敏になっている状態だろう。
青年の華奢な身体は、小刻みに震えていた。
彼こそが、王宮の地下研究所に引き籠もっては奇跡のような魔導具を次々と生み出す天才魔導具師であり、国王の自由奔放な末弟でもあるカミルだったのだが、リリアナにとって目の前の青年は「今すぐ保護しなければ倒れてしまう無茶な若者」でしかなかった。
「大丈夫ですか? 立てますか? ゆっくり息を吸って……」
リリアナは青年の細い腰を支え、厨房の奥にある休憩用の柔らかなソファへと寝かせた。靴を脱がせ、手早く暖炉の前に湯を沸かす。
この状態の胃腸に、刺激の強い固形物や重い茶葉は負担が大きすぎる。
リリアナが選んだのは、新鮮な絞りたての濃厚なミルクだった。
小鍋で弱火にかけ、膜が張らないよう木べらで丁寧に温める。
そこへ、香ばしいアーモンドのエッセンスと天然のバニラビーンズをひとさじ。
さらに、興奮した精神と魔力の揺らぎを穏やかに鎮める効果を持つ、青い自生ハーブから採った澄んだ蜜をたっぷりと溶かし込んだ。
甘く芳醇な香りが厨房を満たす頃、マグカップを両手に持ったリリアナはソファの傍らへと戻った。
「ゆっくり身体を起こせますか? 特製のホットミルクを作りましたよ」
「ん……甘いにおい……」
青い瞳を潤ませたカミルが、ふらふらと上半身を起こす。
リリアナがカップに手を添え、こぼさないように口元へと運んでやると、カミルは子猫のように小さく舌を伸ばし、恐る恐る口に含んだ。
瞬間、青年の大きな瞳が見開かれた。
とろりとしたミルクの優しいコクが舌を包み込み、アーモンドの香ばしさとバニラの甘い香りが、焼き切れる寸前だった脳の髄へとじんわり染み渡っていく。
ハーブの蜜が持つ穏やかな薬効が、暴走しかけていた体内魔力の熱を、水が引くようにすっと鎮めてくれた。
「……おいしい……!」
カミルはリリアナの手からマグカップを奪うように握り直すと、ふうふうと息を吹きかけながら夢中で飲み干した。
最後の一滴まで飲み終えた頃には、白かった頬にぽっと健康的な桜色が差している。
「ふふ、血色が戻ってよかった。研究かお仕事か分かりませんけれど、無茶をしちゃ駄目ですよ」
リリアナが空になったカップを受け取り、母が子にするように自然な手つきで、乱れた彼の金髪をくしゃりと撫でた。
その瞬間、カミルの動きがぴたりと止まった。
王弟というやんごとなき身分、そして希代の天才魔導士という肩書のせいで、周囲からは常に畏怖されるか利用されるかのどちらかだった。
触れられることすら嫌悪し、人間嫌いを拗らせていたはずの彼が、リリアナの暖かな手のひらに触れられた途端、背骨がとろけてしまうような心地よさに襲われたのだ。
「……すごいよ、お姉さん」
カミルはぽかんとリリアナを見上げた後、ふにゃりと無防備な笑顔を咲かせた。
そして突如、ソファから身を乗り出すと、リリアナの腰にぎゅうっと両腕を回して抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと、お客様!?」
「宮廷の薬師が作ったどんな高価な気付け薬より、ずっとずっと効いた! 頭の痛いのが全部消えたよ! ねぇ、お姉さん、僕の専属になって?」
「えっ?」
胸元にすりすりと頬を寄せながら、カミルは上目遣いで甘えるように呟く。
「僕の研究所の一番奥に、お姉さん専用の広い部屋を作ってあげる。
宝石もドレスも何でも買ってあげるから、一日中僕の傍にいて、美味しいものを作って甘やかしてよ」
「はいはい、お戯れはそこまでですよ。元気になったなら何よりですけれど、私はこのお店が好きだから、どこにも行きません」
困ったように笑いながら、リリアナは抱きついてくる青年の頭をぽんぽんと軽く叩いていなした。
子供をあやすようなその態度に、カミルは唇を尖らせて不満そうに頬を膨らませる。
「むぅ……お姉さん、僕が誰だか分かってないでしょ? 振られたのなんて生まれて初めてなんだけど……」
けれど、拒絶されたはずのカミルの顔には、悔しさなど微塵もなかった。
むしろ、自分の肩書や権力にまったく靡かず、ただ一人の疲れ果てた青年として自分を労わり、無邪気に頭を撫でてくれたリリアナに対して、抗いようのない執着の炎が灯っていた。
「絶対にあきらめないからね。ここ、裏口からいつでも来られる場所だって分かっちゃったし」
カミルはリリアナのエプロンの裾をきゅっと握りしめ、獲物を見つけた無邪気な子猫のような、それでいてひどく独占欲に満ちた瞳で笑いかけた。
こうしてまた一人、国の中枢を担う高貴な殿方が、路地裏の小さな喫茶室の温もりに完全に絡め取られてしまったのだった。




