林檎の焼きタルトと、狼騎士のほころぶ頬
秋の気配が深まり、街路樹の葉が赤や黄色に色づき始めた頃、『緑の天幕亭』には穏やかで少しばかり不思議な日常が定着していた。
あの日以来、夜ごと訪れては嬉しそうにハーブティーを傾け、リリアナの顔を見ては蕩けるような笑みを浮かべる『レオ』――筆頭宰相レオナルド公爵である。
身分を明かさないまま通い詰める彼を、リリアナは過労気味の常連客として温かく迎え、そのたびに極上の茶と手料理で胃袋と心を掴んでいた。
そんなある日の午後、カランカラン、とドアベルがいつになく重く硬い音を立てて鳴り響いた。
「いらっしゃいませ」
厨房から顔を出したリリアナは、入り口に立つ影の大きさに思わず目を見張った。
店の引き戸をくぐる際、鴨居に頭をぶつけそうになっている巨躯の男性。
仕立ての良い濃紺の軍服の上から無骨な革鎧をまとい、腰には実戦で使い込まれた長剣を佩いている。
短く刈り込んだ灰褐色の髪に、野獣のように鋭い琥珀色の瞳。
そして左の頬には、刃傷の跡が一本刻まれていた。
全身から放たれるのは、歴戦の戦場を潜り抜けてきた者だけが纏う、濃密な威圧感。
平民の娘であれば悲鳴を上げて竦み上がってもおかしくない風貌の男――王城の守りを統括する近衛騎士団長、ジークハルト伯爵だった。
彼がこの場に現れたのには理由があった。
普段は鉄仮面の如く冷徹で、感情を表に出さない同僚の宰相閣下が、ここ最近、政務の合間にふっと憑き物が落ちたような穏やかな顔を見せるようになったのだ。
そればかりか「王都で唯一息ができる場所を見つけた」などと、普段なら絶対に口にしない戯れ言を漏らしている。
怪しい術でも使う不穏な店ではないかと、自ら偵察に乗り込んできたのである。
(……ずいぶんと肩に力が入っているわね)
だが、リリアナの視点は一般のそれとはまるで違っていた。
かつて過酷な営業職で、強面なクライアントや鬼上司の胃痛や肩こりを察知し続けてきたリリアナには、彼の凶暴そうな佇まいの奥にある「慢性的な過緊張」が手にとるように分かってしまったのだ。
眉間の固さ、浅い呼吸、張り詰めた首筋。国を守る重責に押し潰されかけている人の気配だった。
「外は風が冷たかったでしょう。どうぞ、一番奥の座り心地の良い席へ」
恐れるどころか、ふわりと花が綻ぶような微笑みを向けられ、ジークハルトはぴたりと足を止めた。
威嚇するような己の殺気を完全に受け流され、拍子抜けしたように喉を詰まらせる。
「……あ、ああ」
ぎしりと軋む椅子に腰を下ろしたジークハルトの鼻腔を、甘く香ばしい匂いがくすぐった。
厨房のオーブンから漂ってくるのは、シナモンと焦がしバター、そして林檎が熱されて蜜をあふれさせる芳醇な香りだ。
「ちょうど今、焼き上がったところなんです。お腹が空いていらっしゃるなら、ご一緒にお出ししてもよろしいですか?」
問われたジークハルトは、無愛想に頷くことしかできなかった。
甘いものは軟弱だと敬遠してきたはずなのに、漂う香りに胃袋が情けなく反応してしまったからだ。
やがて運ばれてきたのは、薄くスライスされた紅い林檎が幾重にも美しく花びらのように重ねられた、焼き立てのタルトだった。
香ばしく焼き色がついたパイ生地の上で、果汁とバターの蜜が艶やかに光っている。
隣に置かれたのは、乾燥させた生姜とクローブ、そしてシナモンスティックを煮出した琥珀色のスパイスティーだった。
「身体の芯から温まりますよ。どうぞ、熱いうちに召し上がってくださいね」
リリアナの柔らかな声に促され、ジークハルトは無骨な指先で銀のフォークを握り直した。
一口、端を切り取って口へと運ぶ。
サクッ、と小気味よい音が店内に響いた。
その直後、ジークハルトの琥珀色の瞳が見開かれた。
繊細で軽やかな生地の歯触りとともに、じゅわりと溢れ出たのは林檎の甘酸っぱい果汁だ。
バターの芳醇なコクをスパイスの爽やかさが引き締め、甘すぎず、舌の上でとろけるように広がっていく。
追うように生姜の紅茶を一口含むと、じんわりとした温もりが喉を通って胃の奥へと落ち、冷え切って強張っていた五臓六腑が解けていくのが分かった。
「…………美味い」
思わず口から零れ落ちた呟きは、掠れていた。
無心でフォークを動かす。任務と鍛錬に明け暮れ、食事などただの栄養補給だと切り捨ててきた彼にとって、一口ごとに心がじんわりと満たされていくこの感覚は、生まれて初めての衝撃だった。
気がつけば皿の上は綺麗に空になり、紅茶のカップも最後の一滴まで飲み干していた。
ふと前を見れば、エプロン姿のリリアナが、子供を見守る母親のように嬉しそうに目を細めて自分を見つめている。
その温かな眼差しに気づいた瞬間、ジークハルトの屈強な頬から耳の先端にかけて、カッと熱が駆け上がった。
大の大人が、素朴な菓子を前に夢中になってしまった気恥ずかしさに、慌てて口元を拳で覆う。
「……失礼した。甘いものは好まぬ質だと思っていたのだが……驚くほど、胸の奥が温まった」
「ふふ、良かったです。たくさん召し上がっていただけるのが、一番の褒め言葉ですから」
屈託のない笑顔に、歴戦の騎士の胸がどくりと大きく跳ねた。
宰相が骨抜きにされている理由を、ジークハルトはこの瞬間、痛烈なまでに理解してしまった。
ここには毒などない。ただ、冷え切った心を丸ごと包み込んで溶かしてしまう、甘美な安らぎがあるだけだ。
席を立つ際、ジークハルトは懐からずしりと重い革袋を取り出し、テーブルの上に置こうとした。
隙間から零れ落ちたのは、平民が一生かかっても目にすることのない眩い金貨の輝きだった。
「お、お待ちください! これは一体なんですか!?」
「代金だ。これだけのものを提供されたのだ、当然の対価だろう」
「とんでもありません! うちのような下町の喫茶店で、金貨なんてお受け取りできません。銅貨四枚で十分ですよ」
慌てて首を振って押し返すリリアナの手を、ジークハルトの大きくて硬い掌が、そっと包み込んだ。
剣ダコだらけの無骨な指先は、ひどく熱く、けれど壊れ物を扱うかのように驚くほど優しく彼女の華奢な手を包んでいた。
「……これほど心を満たすものに、銅貨数枚など釣り合わぬ」
ジークハルトの瞳から、もはや鋭い威嚇の色は完全に消え去っていた。
代わりに宿っていたのは、主君に忠誠を誓う以上の熱を帯びた、深い執着と庇護の光だった。
「金で足りぬというなら、私の身体で払おう。……また来る。君のような無防備な女性がこの路地裏で危険に晒されぬよう、この界隈の警備を私が直々に強化する」
「えっ、警備!? そこまでしていただく必要は……」
「必要だ。君のその笑顔を、誰にも奪わせるわけにはいかない」
大真面目な顔で過保護すぎる宣言を落とし、ジークハルトは去り際、包み込んだリリアナの手の甲へ、名残惜しそうに親指の腹を滑らせた。
残されたリリアナは、まだ温もりが残る自分の手を見つめながら、ぽかんと立ち尽くすしかなかった。
(……なんだか、あのお客さんも、レオさんと同じくらいお疲れだったのかしら……?)
高貴な身分を隠した殿方たちが、次々と自分に甘い独占欲の網を張り始めていることにも気づかず、リリアナは首を傾げながら、空になった皿を愛おしそうに洗い場へと運ぶのだった。




