紫のハーブティーと、眠れぬ宰相閣下
雨上がりのしっとりとした空気が、石畳の路地裏を包み込んでいた。
軒先から落ちる雫がかすかな音を立て、店先に並べたハーブの鉢植えからは、濡れた土と若葉の清々しい匂いが立ち上っている。
王都の中央通りから三筋ほど奥に入ったこの場所にある小さな喫茶室『緑の天幕亭』は、いつも穏やかな静けさに満ちていた。
看板娘であり店主でもあるリリアナは、洗い終えた陶器のティーカップを柔らかな布で丁寧に拭いながら、小さく息をついた。
前世の記憶を思い出すと、今でも胸の奥がちくりと痛む。
毎晩終電に追われ、冷え切ったコンビニ弁当を喉に流し込み、心も身体も擦り切れるまで働いた末の結末。
だからこそ、神様から与えられたこの二度目の人生では、身の丈に合った小さな城で、立ち止まりたい誰かのための止まり木を作ろうと決めたのだ。
カラン、とドアベルが低く響いたのは、ちょうど夕暮れが夜の色へと溶け込み始めた頃だった。
「いらっしゃいませ……」
振り向いたリリアナは、思わず言葉を喉の奥に引っ込めた。
開いた扉の前に立っていたのは、粗末な黒い外套を羽織った長身の男性だった。
外套のフードの隙間から覗く濡れた濃紺の髪、彫刻のように均整の取れた青白い顔立ち、そして冴え冴えとした銀色の瞳。
だが、その美貌を覆い隠すほどに、彼の全身からは限界を超えた疲労の色が滲み出ていた。
瞳の奥には痛々しいほどの血走りがあり、目の下には濃い隈が刻まれている。
立っていることすら奇跡のような、今にも崩れ落ちそうな足取りだった。
上等な外套で隠しているものの、仕立ての良い袖口や身のこなしから、平民ではないことなど一目で分かる。
けれどリリアナは、彼の身元を問いただすような野暮なことはしなかった。
疲労に苛まれて擦り切れた人間の顔を、彼女は前世の鏡の中で嫌というほど見てきたからだ。
「……あいにく、空いている席は隅のテーブルしかありませんが、どうぞお掛けになってください。外は冷えたでしょう」
リリアナは努めていつも通りの穏やかな声で微笑み、奥の静かな席へと彼を促した。
男は咎めるような気配を微塵も見せないリリアナに一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、やがて重い溜息とともに、崩れるように椅子へと身を沈めた。
メニューは出さなかった。今の彼に必要なのは、選ぶための思考力すら奪わない、無条件の休息だ。
リリアナは厨房へ戻ると、真鍮の小鍋で湯を沸かし、棚から三種類の茶葉を取り出した。
昂ぶった神経を鎮める薄紫色のマロウブルーとラベンダー、甘い香りで緊張を解くカモミール、そして冷えた内臓を優しく温める乾燥させた柑橘の葉。
丁寧に蒸留したハーブの雫に、匙一杯の野花蜜を落とす。
さらに、今日の午後に焼き上げたばかりの素朴な全粒粉のビスケットを二枚、小皿に添えた。
「お待たせいたしました」
運ばれてきたカップの中で、ハーブティーは夜明けの空のような淡い紫色をたたえていた。
ふわりと立ち上る湯気が、雨上がりの森を思わせる清涼な香りを周囲に広げる。
男――国政のすべてを一手に背負い、不眠と激務に苛まれ続けていた筆頭宰相レオナルド公爵は、差し出されたカップを疑わしそうに見つめた。
毒見も通していない平民の店の茶など、普段の彼であれば口にするはずもない。
だが、立ち上る温かな香りに触れた瞬間、張り詰めていた頭の芯の痛みが、わずかに引いていくのを感じた。
「……毒は入っていませんから、安心してくださいね。身体の強張りを解くお茶です」
リリアナが困ったように笑いかけると、レオナルドは促されるようにカップを両手で包み込んだ。
温もりが指先から伝わり、冷え切っていた血が巡り始める。そっと唇をつけ、一口含む。
柔らかな甘みと、胸の奥深くまで染み渡る清らかな香りが、舌の上から喉を通って全身へと広がっていった。
「……っ」
「お口に合いましたか?」
「…………香りが、身体の芯まで染み渡るようだ。長年……このような安らぎなど、知らなかった」
掠れた低い声が漏れた。レオナルドの眉間に刻まれていた深い皺が、まるで春の陽光に溶かされる雪のように、ふっと解けていく。
その表情を見て、リリアナは前世の自分を抱きしめるような気持ちで、そっと言葉を紡いだ。
「お仕事、本当にお疲れ様です。ここでは何も背負わなくて大丈夫ですよ。ただ温かいものを飲んで、息を抜いていってくださいね」
誰からも弱音を許されず、完璧な冷徹さを求められ続けてきた男にとって、その飾らない労いの言葉は、乾ききった大地に降る恵みの雨のようだった。
レオナルドはもう一口、名残惜しそうにお茶を飲み干すと、ふっと小さく吐息を漏らした。
そして、まるで力尽きた子供のように、腕を組んだテーブルの上へとそのまま突っ伏してしまった。
「……あらら」
規則正しい寝息が聞こえてくる。数週間もの間、まともな睡眠すら得られずにいた男の限界が、温もりの中で静かに解けたのだ。
リリアナはくすりと微笑むと、奥から手織りの厚手の毛布を持ってきて、彼の広い背中にそっと掛けた。
暖炉の火を少しだけ強め、店内のランプの灯りを落として、邪魔をしないようにカウンターへと戻る。
それから二刻ほどが過ぎ、完全に夜の帳が降りた頃。
毛布の下で身じろぎが起き、レオナルドがゆっくりと顔を上げた。
その双眸からは先ほどまでの張り詰めた狂気が消え失せ、潤いを帯びた銀色の瞳が、驚愕とともに瞬いていた。
「……私は、眠っていたのか……? 薬にも頼らず、このような場所で……」
「よく眠れましたか? お顔色が少し良くなりましたよ」
リリアナがお冷を注いだグラスを持って歩み寄ると、レオナルドは呆然と彼女を見上げた。
平民の娘特有の飾り気のないエプロン姿、温和な瞳、そして柔らかく結ばれた口元。
自分を公爵とも宰相とも知らず、ただの疲れ果てた旅人のように扱い、無防備な眠りを守ってくれた存在。
レオナルドは無言のまま、グラスを受け取ろうとするリリアナの華奢な手首を、吸い寄せられるようにそっと引き寄せた。
「あの……お客様?」
戸惑うリリアナの反応を気にする余裕もなく、レオナルドは彼女の白く小さな指先を自分の口元へと運び、慈しむように、けれど熱を孕んだ唇を落とした。
絹のように滑らかな感触と、男の熱い吐息が触れた場所に、じわりと熱が広がる。
「……私の名を、レオと呼んでほしい」
「え……?」
「名乗るに足る礼を、まだ君にしていない。この数年間で、これほど深く穏やかな眠りを得られた夜はなかったのだから」
銀の瞳の奥に宿ったのは、氷の宰相と呼ばれる男が誰にも見せたことのない、深く蕩けるような執着と情愛の光だった。
レオナルドはリリアナの手を離そうとせず、その指先に己の額を押し当てながら、独占欲を滲ませた甘い笑みを浮かべたのだった。




