月夜のテラスと、宰相の切ない告白
嵐の夜が嘘のように過ぎ去り、王都の空には澄み渡った銀の月が浮かんでいた。
『緑の天幕亭』の営業を終え、片付けを済ませたリリアナは、裏庭に面した石造りのテラスへと出た。
春の夜風がひんやりと心地よく、月光を浴びたハーブの葉が白銀に濡れて静かにそよいでいる。
木製の丸テーブルの上には、深紅のワインが注がれた二つのグラスと、ドライイチジクに蜂蜜漬けのナッツ、薄く削った熟成チーズが並んでいた。
その向かいに腰掛けていたのは、上等な白シャツの袖をまくり、グラスを指先で弄ぶレオナルドだった。
筆頭公爵としての豪奢な上衣も、冷徹な筆頭宰相としての鋭い仮面も脱ぎ捨てた彼の姿は、月の光の下で息を呑むほど儚げに見えた。
「夜更けに突然押しかけてすまなかったね、リリアナ」
レオナルドは自嘲気味に口元を緩め、琥珀色の瞳ならぬ冴えた銀の瞳を伏せた。
グラスの縁をなぞる白く長い指先が、わずかに憂いを帯びている。
「ううん、嬉しいです。レオさんはいつも私を守ってくださってばかりですから……たまにはこうして、ゆっくりお話ししたかったんです」
リリアナが微笑んでグラスを傾けると、ふわりとベリーとシナモンの芳醇な香りが口の中に広がった。
レオナルドが持参したその古酒は、渋みが少なく、身体を芯からじんわりと温めてくれる極上のワインだった。
「……今夜は、どうしても君の声が聞きたかったんだ。城の執務室に一人でいると、壁の向こうから幾重もの打算と嫉視が押し寄せてくるようでね」
ワインを一息に喉へと流し込んだレオナルドは、夜空の月を見上げながら、ポツリと独白を零し始めた。
「私は幼い頃から、『完璧な公爵家の後継者』でなければならなかった。感情を見せれば弱みと取られ、一度でも判断を誤れば国が傾く。
泣くことも、立ち止まることも許されず、誰も信じないことだけが己を守る術だった」
低く掠れた声には、国を背負い続けてきた男の、底知れぬ孤独が滲んでいた。
「誰からも『完璧な宰相』であることを求められ、それに慣れてしまったはずだった。……だが、君が現れて、すべてが変わってしまったんだ」
レオナルドは椅子から静かに立ち上がると、リリアナの座る椅子の脇へと歩み寄った。
そして、迷いなくその場に片膝をつき、リリアナを見上げる体勢を取る。
「君の淹れる茶を飲んだ日、数年ぶりに眠りに落ちた瞬間……私は己の心の脆さに戦慄したよ。
こんなにも温かい場所を知ってしまえば、もう二度と、あの冷たい氷の玉座には戻れなくなってしまうのではないかとね」
熱い銀の瞳が、リリアナの顔を射抜くように捉える。
レオナルドは手袋を外した素肌の手を伸ばし、リリアナの華奢な膝の上に自らの掌を重ねた。
「君が平民でい続けたいと願うたび、胸が締め付けられるほど愛しい反面、恐ろしくもなる。
私には手に入らないものが何一つないはずなのに……
君の心だけは、どんな権力を使っても縛ることはできないのだから」
「レオさん……」
前世で、弱音を吐くことを許されず、誰の期待にも応えようとして擦り切れていった自分自身の記憶が胸を突いた。
どれほど賞賛されても満たされない孤独、失敗を恐れて眠れぬ夜を過ごす恐怖。
リリアナはその痛みを、痛いほど理解できた。
リリアナはそっと身を屈め、レオナルドの濃紺の美しい髪に、己の両手を優しく差し入れた。
指先を滑らせて頭皮を優しく解きほぐすと、レオナルドの肩がビクリと小さく震えた。
「完璧でなんかいなくていいんですよ、レオさん。私の前では、国一番の宰相様じゃなくていいんです」
リリアナは自分のエプロンの膝をぽんぽんと叩き、柔らかく微笑んだ。
「ほら、ここに頭を乗せてください。今夜は朝まで、何も背負わなくていいですから」
レオナルドは一瞬、信じられないものを見るように目を見張った。
だが次の瞬間には、崩れ落ちるようにして、リリアナの柔らかな膝の上へと自らの頭を預けてきたのだ。
「……あぁ、リリアナ……」
細い腰に長い腕を回し、顔をリリアナの太ももに深く埋めるレオナルド。
冷徹な宰相が、まるで母の温もりを求める幼子のように、あるいは主人の足元にすがる忠犬のように、リリアナの体温へとしがみついてくる。
リリアナは膝の上にある重みを受け止めながら、彼の耳の後ろや、張り詰めていた項を、温かな掌でゆっくりと撫で続けた。
ハーブの香りが二人の間に溶け合い、夜風が優しくカーテンを膨らませる。
「私の命も、この地位も、君の安らぎの前には何の意味もなさない。
……君を愛している、リリアナ。世界中の誰よりも深く……」
掠れた囁きとともに、レオナルドの唇が、リリアナの膝を覆うコットンのスカート越しに熱く押し当てられた。
熱烈で、切ないほどに重い独占欲と情愛。触れられた場所から、じんわりと甘い痺れが身体の奥へと広がっていく。
やがて、リリアナの指先がリズミカルに髪を梳かすうち、レオナルドの呼吸は次第に深く、規則正しいものへと変わっていった。
常に眉間に刻まれていた険しい皺はすっかり消え去り、月の光に照らされた寝顔は、驚くほど穏やかで無防備だった。
(お疲れ様でした、レオさん)
前世の孤独も、現世の重圧も、すべてはこの小さなテラスの夜の中に溶けていく。
膝の上ですやすやと寝息を立てる愛しい宰相の温もりを感じながら、リリアナは胸いっぱいの愛しさに目を細め、夜明けが訪れるまでその髪をそっと撫で続けるのだった。




