↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/55

雨降りの店先と、濡れ鼠の騎士団長

春の夜を切り裂くように、激しい雨が石畳を打ち据えていた。


突風が窓枠をガタガタと揺らし、普段は穏やかな下町の路地裏も、今夜ばかりは唸りを上げる嵐の底に沈んでいる。


閉店の札を掲げ、店内のランプを絞った『緑の天幕亭』の厨房で、リリアナは小鍋に火をかけていた。


前世でも、春先にやってくる大嵐の夜はよく覚えていた。


ずぶ濡れのスーツに冷え切った爪先、止まってしまった電車を待つ駅のホームの寒々しさ。


そんな夜に誰かが温かい部屋で待っていてくれたら、どれほど救われただろうと夢想したものだった。


(こんな大雨の中、今夜も見回りに出ているのかしら……)


脳裏に浮かぶのは、生真面目すぎる近衛騎士団長の顔だ。


王都の治安を預かるジークハルトのことだから、嵐に乗じた暴徒や水害を警戒して、自ら夜警の先頭に立っているに違いなかった。


そんなことを考えていた矢先、ガタ、と店の引き戸が小さく鳴った。


続いて、遠慮がちながらも重みのあるノックの音が三度、扉を叩く。


「……はい、どなたですか?」


警戒しながら鍵を開け、扉をわずかに引いたリリアナは、息を呑んで目を見張った。


軒下に立っていたのは、頭から爪先までぐっしょりと水を滴らせたジークハルトだった。


普段の威風堂々たる軍服マントは雨水を吸って黒く重く垂れ下がり、短く刈り込まれた灰褐色の髪からは絶え間なく雫が落ちている。


手袋を外した指先は雨風に晒されて赤くかじかみ、肩で荒い息を吐いていた。


「ジークハルトさん……!? どうしてこんな嵐の中に!?」


「……驚かせてすまない。下町側の巡回が終わったところでな。

……明かりが見えたものだから、つい足が向いてしまった」


雨水に濡れた長い睫毛を伏せ、低く掠れた声で弁明する姿は、まるで雨宿りの場所を探して迷い込んだ大型の狼のようだった。


歴戦の猛者たる彼が、平民の店先でこれほど申し訳なさそうに身を縮めているのだ。


「そんなところで立ち話をしていては凍えてしまいます! 早く中へ入ってください!」


リリアナは慌てて彼の逞しい腕を引き、店内へと引っ張り込んだ。


分厚い軍服マントを脱がせ、床が濡れるのも構わずに薪ストーブの前へと座らせる。


そして二階から大判のリネンのタオルを何枚も抱えて戻ってきた。


「すぐに着替えをご用意できればいいのですが、あいにく私の店には大柄な殿方の服がなくて……せめて上着を脱いで、これを羽織ってください」


「いや、君の布を濡らしてしまう。私ならこのままで構わん」


「我慢なさらないで! 風邪を引いたらどうするんですか」


頑固な騎士を叱りつけるようにして濡れた上衣を脱がせると、鍛え上げられた分厚い胸板を覆う、雨で肌に張り付いた薄いシャツがあらわになった。


逞しい肉体から立ち上る微かな湯気と、冷たい雨の匂い。


リリアナは乾いたタオルを彼の頭にふわりと被せ、爪先立ちになりながら、両手で彼の濡れた髪をわしゃわしゃと丁寧に拭き始めた。


「……本当に、いつも無茶ばかりなさるんですから。部下の方にお任せして、ご自分は休むことだってできたはずでしょう?」


「……嵐の夜は、視界が悪く事故も起きやすい。上の者が前線に立たねば、兵の士気配りもできん」


「立派なのは分かりますけれど、ご自分のお身体も大切にしてください。ジークハルトさんに何かあったら、私……とても悲しいんですから」


小言を零しながら、冷え切った耳の裏や、傷跡の残る項を優しく拭うリリアナ。


ハーブの石鹸と甘い焼き菓子の香りをまとった彼女の柔らかな掌が、冷え切った頭皮や首筋を包み込むたび、ジークハルトの喉仏が小さく上下した。


至近距離にあるリリアナの真剣な瞳、息がかかるほどの距離感、そして無防備に寄せられる温もり。


タオル越しに触れる華奢な指先の熱が、凍てついていた彼の神経を、熱狂的なまでに焼き焦がしていく。


「……リリアナ」


「はい、まだ冷た――きゃっ」


突如として、逞しい両腕がリリアナの腰をすくい上げるように引き寄せた。


足が浮き、気づいた時にはジークハルトの膝の上へと抱き上げられ、濡れたシャツの胸板へとすっぽりと閉じ込められていた。


「ジ、ジークハルトさん……!? 服が濡れてしまいます……!」


「濡れてもいい。……すまない、もう我慢が利かない」


低く、獣の呻きのような熱を帯びた声が耳朶を打つ。


ジークハルトはリリアナの背中に回した腕にギリギリと力を込め、自らの広い胸の中へ彼女の全身を埋め込むように、狂おしい強さで抱きしめた。


無骨な顎がリリアナの肩口に落とされ、濡れた髪から滴る冷たい雫と、彼の滾るような熱い体温が同時に肌へと伝わってくる。


「……冷たい雨の中を歩きながら、頭の中には君の笑顔しかなかった」


ジークハルトはリリアナの柔らかな首筋に鼻先を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。


「店先の明かりが見えた瞬間、足が勝手に動いていた。

……身分違いだと、分かきまえた立場を守らねばと己に言い聞かせても、君の温もりを前にするとすべてが吹き飛んでしまう」


「ジークハルトさん……」


「頼むから、今夜だけは私を突き放さないでくれ。……君がいない世界など、私には寒すぎて息もできない」


歴戦の英雄が、ただ一人の女性の腕の中で、迷子のように震えながら愛を乞うている。


その切ないまでの熱烈な執着と、心臓を直接叩くような力強い鼓動に触れ、リリアナの胸は甘い痺れでいっぱいになった。


前世で、嵐の夜に誰も手を差し伸べてくれなかった孤独が、この逞しい腕の熱によって跡形もなく融解していく。


リリアナはタオルを握っていた手をそっとほどき、ジークハルトの濡れた背中へとそっと腕を回した。


そして、子供をあやすように、大きな背中を優しく撫でる。


「突き放したりなんて、しませんよ。……お疲れ様でした、ジークハルトさん」


リリアナが耳元でそう囁くと、ジークハルトは息を呑み、さらに強く彼女を抱きしめ返した。


外で吹き荒れる春の嵐の音をかき消すように、二人きりの薪ストーブの前で、熱く重なり合う体温と甘い吐息が、夜が更けるまでどこまでも静かに溶け合っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。