名誉貴族の再打診と、揺るがぬ平民の決意
皇国との和平通商条約が無事に締結されてから数日後、『緑の天幕亭』の丸テーブルには、豪奢な王室の金印が押された新たな親書が広げられていた。
届けに来たのは、すっかりリリアナのハーブティーの信奉者となった王室監察官のバルトロ伯爵だった。
彼は姿勢を正し、恐縮した面持ちで頭を下げた。
「リリアナ殿。先の外交における貴女の功績は、国境を越えて和平を決定づけたものとして、国王陛下も深く感じ入っておられます。
冬至祭でのご辞退は承知の上で、陛下より改めて『名誉子爵』の位と領地の授与を打診するようにと命を受けました」
名誉貴族の再打診。しかも一代限りの名誉職にとどまらず、確固たる爵位と年金、領地まで伴う破格の待遇だった。
平民の身分を脱し、貴族社会へ堂々と足を踏み入れることができる切符である。
同席していたレオナルドは、テーブルに置かれた親書に静かに視線を落とした。
銀の瞳には微かな葛藤が揺れていた。
もしリリアナが爵位を受け入れれば、公爵である自分との身分差の壁は大幅に薄れ、公の場でも堂々と彼女を妻に望むことができる。
ジークハルトもまた、膝の上に置いた拳を握りしめ、カミルも珍しく口を挟まずにリリアナの横顔を見つめていた。
彼らにとって、身分差が解消されることは喉から手が出るほど望ましいはずだった。
それでも三人は、誰一人としてリリアナに受諾を迫るような真似はしなかった。
リリアナは親書をそっと指先で撫で、静かに息を吸い込んだ。
脳裏をよぎったのは、前世での終わりのない出世競争の日々だ。
課長、部長と肩書が重くなるにつれて責任ばかりが膨らみ、部下のミスを背負い、上層部の理不尽に耐え、最後は自分の心と身体が壊れるまで走り続けてしまったあの冷たいオフィス。
「バルトロ様、陛下への身に余る光栄、心より感謝申し上げます。
……ですが、私の答えは変わりません。この爵位をお受けすることはできません」
リリアナの澄んだ声に、バルトロは驚きに目を見張った。
「爵位があれば、いかなる無礼な貴族も貴女を軽んじることはできなくなります。生活も生涯保障されるというのに、なぜそこまで平民の身分にこだわるのですか……?」
「肩書がついてしまえば、この店の扉が重くなってしまうからです」
リリアナは優しく、けれど一片の迷いもない眼差しで微笑んだ。
「貴族の館になってしまえば、日々の過酷な肉体労働で腰を痛めた石畳職人のおじいさんも、長時間の仕込みで手荒れに悩むパン屋の娘さんも、気兼ねなく『ごめんください』と入って来られなくなってしまいます。それに……」
リリアナは視線を巡らせ、自分を息を詰めて見守っていた三人の殿方たちへと向けた。
「レオさんも、ジークハルトさんも、カミルさんも。
国を背負う重責や身分をぜんぶ脱ぎ捨てて、ただの『お疲れ気味の一人の男の人』として息を抜ける場所が、この王都に一つくらいは必要でしょう? 私はその止まり木であり続けたいんです」
静寂が店内に降りた。
やがて、バルトロは深く息を吐き、これ以上ないほど深い敬意を込めて一礼した。
「……愚問でございました。貴女のその清らかな誇りこそ、この国に最も必要な光なのかもしれません。
陛下には、貴女の言葉をそのままお伝えいたします」
使者が去り、再び店内に戻った静けさの中、リリアナの身体は背後から伸びてきた力強い腕によって、そっと包み込まれた。
「……君という人は、どこまで私の心を奪えば気が済むのだろうね」
レオナルドだった。濃紺の髪をリリアナの首筋に寄せ、切ないほど熱い吐息を落としながら、彼女の細い腰を抱きしめる。
「身分差など、君の前では塵芥に等しいと改めて思い知らされたよ。
君が平民でいたいなら、私がその平民の庭に一生通い詰めよう。公爵の座を捨ててでも、君の隣にいたい」
「閣下の言う通りだ」
ジークハルトが正面から歩み寄り、大きな掌でリリアナの両手をそっと包み込んだ。
琥珀色の瞳は熱く潤み、不器用な笑みを浮かべている。
「君が肩書を嫌うなら、私が君の盾となり、身分の壁ごとすべての害意を叩き斬る。
君が笑って店を開けていられるなら、それ以上の幸福などこの世にない」
「お姉さん、大好き! 世界で一番大好き!」
カミルが隙間から勢いよく飛び込み、リリアナの胸元にぎゅっと抱きついて甘えた声を上げた。
「僕ね、お姉さんが爵位をもらって偉くなっちゃうより、ここでずっとエプロン姿でお菓子を焼いてくれるほうが百万倍嬉しい! 僕の一生の居場所は、お姉さんの隣だけなんだからね!」
三者三様の熱い体温と、惜しみない情愛に包まれ、リリアナの胸の奥はじんわりと熱い幸福感で満たされていく。
出世も、名誉も、贅沢な暮らしもいらない。
ただ目の前にいる大切な人たちの疲れを癒やし、こうして惜しみなく甘やかされること。
初夏の爽やかな風がカーテンを揺らす中、リリアナは愛しい殿方たちに囲まれながら、満ち足りた笑顔を咲かせるのだった。




