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皇国からの使節団と、疲弊した外交官

初夏の気配が微かに漂い始めた頃、王都の宮廷は張り詰めた緊張感に包まれていた。


国境を接する大国・ガルディニア皇国との間で、数年に一度の通商および安全保障に関する大規模な外交交渉が行われていたためである。


連日の難航する折衝の末、合意形成の鍵を握る皇国の全権使節団長――ヴォルフガング卿は、限界を迎えていた。


遠方からの長旅による時差と気候の違い、そして国家の命運を一身に背負う重責から、一睡もできぬまま数週間を過ごし、その眼光は疑心暗鬼と疲労で血走っていた。


神経過敏に陥った相手との交渉は決裂寸前であり、一触即発の危機が迫っていたのだ。


そんな重苦しい昼下がり、『緑の天幕亭』のドアベルが控えめに鳴った。


現れたのは、仕立ての良い旅外套を羽織ったレオナルドと、その後ろで警戒心を露わにしながら周囲を睨みつける、土気色の顔をした初老の紳士――ヴォルフガング卿だった。


「いらっしゃいませ、レオさん。……そちらの旦那様も、どうぞ奥の静かな席へ」


リリアナは相手が他国の重要人物であることには触れず、ただ酷く消耗した一人の旅人を迎えるように柔らかな会釈を返した。


紳士の様子を見れば、何が起きているかは明白だった。


前世で、海外拠点との深夜に及ぶ契約交渉や時差ボケに苛まれ、胃薬を握りしめながら倒れかけていた役員たちの姿と完全に重なっていたからだ。


青白い肌、乾いた唇、浅く不規則な呼吸。限界まで張り詰めた神経が、今にも切れそうな悲鳴を上げていた。


「レオナルド閣下、このような薄汚れた下町の店に私を連れ出すなど、何のおつもりだ。……毒を盛るつもりなら、受けて立つが」


険のある嗄れ声で言い放つ紳士に対し、リリアナは静かに湯気を立てる白い陶器のカップを差し出した。


「お待たせいたしました。遠方からのお越しで、身体の芯がお疲れでしょう。長旅の強張りを解くお茶でございます」


カップから立ち上ったのは、淡い林檎の甘みと、雨上がりの高原を思わせる清涼な香りだった。


時差や緊張による自律神経の乱れを整えるパッションフラワーとリンデンフラワー、疲弊した胃腸を優しく温めるカモミール、そして乾燥させた林檎の皮。そこへ、深山の百花蜜を一さじ溶かしてある。


「……何の真似だ。私は他国の茶など――」


「卿、黙って一口だけ口に含んでみてほしい。私の言葉が偽りかどうか、貴殿の身体自身が教えてくれるはずだ」


レオナルドの静かな促しに、ヴォルフガング卿はおずおずとカップを唇に当てた。


そして、熱い雫を一口飲み下した瞬間――老外交官の全身が、目に見えて震えた。


「っ……あ……」


まろやかな甘みが舌を包み、優美な香りが鼻腔を抜けて脳の奥底へと染み渡っていく。


長年の激務で氷のように固まっていた頭の芯の痛みが、春の陽光を受けた残雪のように、急速に溶け出していった。


首筋の強張りが消え、締め付けられていた胸の奥がふわりと広がる。


「……なんだ、これは……。胸の痛みが、消えていく……? 身体が、こんなにも軽くなるなど……」


老紳士の血走っていた瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。


国家の威信を背負い、誰の前でも弱音を吐けず、孤独の中で眠れぬ夜を数え続けてきた男の頑なな心が、一杯の温かな茶の前に完全に崩壊したのだ。


「ずっと……怖かったのだ。私が一歩でも退けば、我が国の民が苦しむと……。眠ることすら、許されないと……」


「よく頑張ってこられましたね。今は何も背負わなくて大丈夫ですよ。ゆっくり休んでください」


リリアナがそっと背中に手を添えて囁くと、ヴォルフガング卿はカップを干すと同時に、子どものように安らかな息を吐きながらテーブルの上へと突っ伏した。


数年ぶりとなる、深く温かな安眠へと落ちていったのだ。


奥から持ってきた厚手の毛布を紳士の背に掛けてやり、静かに息をついたリリアナの腰を、背後からレオナルドの長い腕がそっと引き寄せた。


「……リリアナ」


耳元に落とされた声は、甘く熱を帯びて震えていた。


レオナルドはリリアナを後ろから抱きすくめると、その細い首筋に自分の額を押し当て、深く息を吸い込んだ。


「レオさん……?」


「君は本当に、奇跡そのものだ。軍隊を動かしても、どれほど弁を振るっても解けなかった頑なな心を、たった一杯の茶で救ってしまうのだから」


レオナルドはリリアナの華奢な手を取ると、白く滑らかな指先を己の唇へと運び、一指ごとに慈しむような口づけを落とした。


公爵としての威厳も宰相としての冷静さも脱ぎ捨て、ただ一人の男として、彼女への狂おしいほどの愛しさと独占欲を露わにする。


「君のこの温もりを、世界中の誰にも渡したくない。

……だが同時に、君の優しさが誇らしくてたまらないよ。

この使節団長が目を覚ませば、平和条約は滞りなく締結されるだろう。

君はまた、国を救ってくれた」


「私はただ、お疲れの方にお茶をお出ししただけですよ」


「その純粋さが、たまらなく愛しいんだ」


銀の瞳を細めて微笑むレオナルドは、逃がさないように抱きしめる腕の力を少しだけ強め、リリアナの頬へと甘く深い口づけを重ねた。


初夏の爽やかな風がカーテンを揺らす中、路地裏の小さな茶房は、国境をも越える温かな奇跡と、底なしの愛の熱気に包まれていた。

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