王立魔導院の暴走事件と、青い鎮静茶
春の穏やかな青空を切り裂くように、王都の中央にそびえ立つ王立魔導院の尖塔から、紫色の火花と不穏な警報の鐘の音が鳴り響いた。
『緑の天幕亭』の厨房で乾燥ハーブの選別をしていたリリアナが顔を上げた瞬間、足元に青白い転移魔法の燐光が弾けた。現れたのは、息を切らし、金髪を振り乱したカミルだった。
「お姉さん……助けて! 魔導院の連中が、みんなおかしくなっちゃったんだ!」
半泣きでリリアナの腰にしがみついてくるカミルによれば、国家規模の大規模結界更新の納期が迫り、魔導士たちが何日も不眠不休で魔力を練り続けた結果、極度の脳疲労と魔力過多による集団パニックを引き起こしてしまったのだという。
「みんな頭から湯気を出して、意味不明な呪文を叫びながら暴走寸前なんだよ……! 僕が力づくで気絶させようとしたけど、結界術式が暴発したら大爆発になっちゃう!」
その切羽詰まった状況を聞いた瞬間、リリアナの脳裏に前世の苦い記憶が鮮明に蘇った。
システムリリースの直前、不眠不休で画面を見つめ続けた同僚エンジニアたちが過呼吸を起こし、オフィス全体が殺伐としたパニックに飲み込まれていたあの惨劇である。
(これは……極限状態の神経過敏と、過度の脳貧血よ!)
「カミルさん、落ち着いて。力でねじ伏せたら余計に暴走します。すぐに準備しますから、魔導院へ連れて行ってください」
リリアナは厨房から大ぶりの蒸留鍋と、青い花弁が美しい鎮静薬草『宵星草』、そして甘い香りのカモミールとラベンダーを素早くバスケットに詰め込んだ。
さらに、早朝に届いたばかりの新鮮な濃厚ミルクの瓶を抱え、カミルの転移魔法で魔導院の執務フロアへと跳んだ。
転移した先は、まさに阿鼻叫喚の嵐だった。
床一面に散乱した羊皮紙と割れたフラスコ。
充満する焦げた魔力の匂い。
血走った目で虚空を睨み、「数式が合わない」「終わらない」と喚き散らす魔導士たちの指先からは、制御を失った紫の火花がバチバチと飛び散っている。
リリアナは怯むことなく、即座に動いた。
「カミルさん、フロア全体に微風の魔法を回してください。換気扇の代わりです!」
「う、うん!」
カミルが杖を振って澱んだ空気を循環させる中、リリアナは床に加熱魔導具を置き、大鍋にたっぷりのミルクを注ぎ入れた。
弱火で温めながら、すり潰した宵星草のエキスと乾燥カモミール、そしてバニラビーンズを惜しみなく投入する。
仕上げに、魔力の乱れを整える澄んだアカシアの蜂蜜をひと匙。
小鍋からふわりと立ち上ったのは、夜明けの森を思わせる清涼感と、焼き立ての菓子のような甘美で優しい香りだった。
青いハーブのエキスがミルクに溶け合い、淡い夜空色に染まった湯気が、風に乗ってフロアいっぱいに広がっていく。
「……ん? なんだ、この甘い匂いは……?」
「頭の奥の激痛が……すっと、和らぐ……?」
狂乱していた魔導士たちが、一人、また一人と足を止め、鼻をひくつかせた。
神経を逆撫でする魔力の暴発が、湯気とともに漂うハーブの鎮静香によって、水で洗い流されるように急速に鎮まっていく。
「皆さん、お仕事の手を止めて。温かいミルクができましたよ」
リリアナが柔らかな声で呼びかけ、魔導士たちの手元へ淡い青色のホットミルクを注いだカップを手渡していく。
震える手で受け取り、おずおずと口をつけた魔導士たちの瞳が、瞬時に見開かれた。
まろやかなミルクの温もりが喉を通り、胃の腑に落ちた瞬間、焼き切れそうだった脳の芯がふわりと弛緩していく。
張り詰めていた交感神経が一気に解きほぐされ、あちこちから「美味い……」「生き返った……」と、涙混じりのため息が零れ落ちた。
次々と床やソファに崩れ落ち、数日ぶりの安らかな寝息を立て始める魔導士たち。
フロアを満たしていた暴走の危機は、一杯の温かな飲み物によって完全に霧散したのだった。
「ふう……なんとか間に合ってよかったわ」
額の汗を拭ったリリアナの背後から、突如として強い力で身体が抱きすくめられた。
「お姉さぁぁん……っ!」
カミルだった。床に散らばる部下たちの視線など一切気にせず、リリアナの腰にすっぽりと両腕を回し、その胸元に顔を埋めてぐりぐりと押し付けてくる。
「怖かったよぉ……! 僕の結界が破れたらどうしようかと思った! やっぱりお姉さんはすごい、世界で一番の魔導士よりずっとすごい!」
「カミルさん、皆さんが見ていらっしゃいますよ。もう大丈夫ですから、離れてくださいな」
「やだ、絶対に離さない! 僕が一番お姉さんに甘えたいんだもん!」
カミルは青い瞳を潤ませてリリアナを見上げると、その細い指先を自らの口元へ運び、甘噛みするように唇を落とした。
無邪気な少年の仮面の下から、独占欲に満ちた男の熱い眼差しが覗く。
「こんなすごいお姉さん、誰にも渡したくない。今日の夜は絶対に僕の部屋に泊まってよね。朝まで僕の頭を撫でて、甘やかしてくれないと許さないんだから」
人目も憚らない熱烈なおねだりに、リリアナの頬が一気に赤く染まる。
遠くで正気を取り戻した魔導士たちが、自分たちの最高指導者が平民の女性に骨抜きにされている姿を呆然と見つめる中、リリアナは困ったように微笑みながら、甘えたがりの天才魔導士の金髪を優しく撫でてやるのだった。




