冬の終わりの蜂蜜漬けと、重なる温もり
屋根の庇に下がっていた氷柱が、昼下がりの柔らかな日差しを受けてぽたぽたと雫を落としていた。
まだ風は冷たいものの、冬の終わりと微かな春の気配が混ざり合う、穏やかな午後。
『緑の天幕亭』の厨房には、鼻腔をくすぐる爽やかで甘美な香りが満ちていた。
木製の作業台に並んでいるのは、南方の領地から届いたばかりの瑞々しい黄色いレモンと、よく肥えた黄金色の生姜、そして深い琥珀色の野花蜜が詰まった素焼きの壺だ。
リリアナは薄刃のナイフを手に取り、透き通るような薄さにレモンをスライスしていく。
冬から春へと季節が移り変わる時期は、寒暖差で体調を崩したり喉を痛めたりする人が増える。
前世でも、年度末の繁忙期に風邪をこじらせ、声が出ないまま電話対応をして涙目になっていた同僚たちの姿をよく見かけたものだった。
(あの頃の私に、これを瓶ごと差し入れてあげたかったわね)
苦笑しながら薄切りの生姜を重ね、煮沸消毒した大きなガラス瓶へ交互に敷き詰めていく。
そこへ、とろりと濃厚な蜂蜜をたっぷりと回し入れると、琥珀色の波が黄金の果実を包み込んでいった。
カラン、とドアベルが静かに鳴り、続いて裏口の勝手口からも控えめなノックの音が響いた。
「いい匂いだ。遠くの通りまで甘い香りが届いていたよ」
「外はまだ底冷えするな。……仕込みの最中か、リリアナ」
「お姉さーん! 良い匂いにつられて飛んできちゃった!」
示し合わせたわけでもないのに、表からは執務服姿のレオナルドが、裏口からは巡回上がりのジークハルトと、転移魔法を解いたカミルがほぼ同時に足を踏み入れてきた。
三人とも、国を動かす重責の只中にいるはずなのに、この店に足を踏み入れる瞬間だけは、肩から鎧を脱ぎ捨てたような穏やかな顔をしている。
「ふふ、皆さんいらっしゃい。ちょうどレモンと生姜の蜂蜜漬けを仕込み終えたところですよ」
リリアナが瓶の蓋を閉めようとすると、カミルが待ちきれない様子でその腕にすがりついてきた。
「味見! 僕に一番に味見させて!」
「まだ漬けたばかりだから、果汁が馴染むのは明日以降ですよ。……でも、少しだけなら」
小皿に残った蜂蜜とレモン果汁を小さな木のスプーンですくい、カミルの前に差し出す。
カミルは青い瞳を輝かせてぱくりと咥えると、とろけるような顔で目を細めた。
「んん~っ! 甘くて、すっぱくて、喉の奥がじわぁって温かくなる……! お姉さん、やっぱり天才だよ」
「カミル、抜け駆けは感心しないな。私にも一口分けてくれないか」
レオナルドが優雅に歩み寄り、リリアナの横に立つと、彼女の手に残っていたスプーンを自らの指でそっと導いた。
リリアナが瞬く間に赤面するのも構わず、カミルが舐めたばかりの反対側ではなく、リリアナの指先が触れていた柄の近くに唇を寄せ、残った蜜を吸うように口にする。
「……素晴らしい。疲れ切った頭の隅々まで、芳醇な甘みが染み渡るようだ。君の作るものは、いつでも私の渇きを完璧に癒やしてくれる」
銀の瞳を流し目にして囁くレオナルドに、ジークハルトが太い眉を寄せて割り込んできた。
「閣下、厨房で色香を振りまくのはやめていただきたい。
……リリアナ、大瓶の持ち運びは私がやる。重いものを持てば、また手首を痛めるだろう」
ジークハルトは蜜の詰まった重いガラス瓶を軽々と二つ抱え上げると、貯蔵庫の棚へと慣れた足取りで収めてくれた。
戻ってきた逞しい身体からは、冷たい外気配と、彼自身の熱い体温が心地よく漂っている。
仕込みを終えた厨房から店内の薪ストーブの前へと移動すると、カミルが「今日は特別!」と言って、空間収納から取り出した巨大な布を広げた。
それは、最高級の白山羊の毛を編み込み、自動で体温を最適に保つ術式を付与したという、特注の大きな厚手毛布だった。
「はい、お姉さんを真ん中にして、みんなで包まるの!」
カミルがぐいぐいとリリアナをソファの中央へ押し込み、その右隣にレオナルドが、左隣にジークハルトが腰を下ろした。
四人を丸ごと覆い隠すように大きな毛布が掛けられると、ストーブの暖気と術式の温もりが閉じ込められ、そこは一瞬にして誰にも邪魔されない極上の揺り籠となった。
「あ、あの……皆さん、少し近すぎませんか……?」
身動きが取れないほど密着した空間で、リリアナの心臓がトクトクと激しく跳ねる。
右肩には、レオナルドが寄り添い、その白く長い指先がリリアナの指を絡め取っている。
薄いシャツ越しに伝わる知的な宰相の鼓動は、普段の冷徹さとは裏腹に、驚くほど熱く力強い。
左側からは、ジークハルトの逞しい腕がリリアナの肩を抱き寄せ、広い胸板の中へと彼女の身体をすっぽりと閉じ込めていた。
無骨な掌が、毛布越しに彼女の背中を優しく撫でている。
そして正面からは、カミルがリリアナの膝の上に頭を預け、腰に両腕を回して子猫のように丸くなっていた。
「近くなどない。……こうしていなければ、公務の寒さに凍えてしまいそうだ」
レオナルドがリリアナの耳元に唇を寄せ、吐息を漏らす。
「君の体温を感じている時だけ、私は戦うための刃を下ろすことができる。……少しの間だけでいい、このままでいさせてくれ」
ジークハルトの掠れた声が、頭上から降ってくる。
「お姉さん、すっごく柔らかくていい匂い……僕、もうお城のベッドには戻れないよ……」
カミルがリリアナの胸元にすりすりと額をこすりつける。
三人三様の深すぎる情愛と、逃げ場のない甘やかな重み。
前世で、冷え切ったワンルームの部屋で独り膝を抱え、寒さに震えながら眠りについていた記憶が、遠い幻のように霞んでいく。
今、自分の周囲には、世界の誰よりも尊い男たちが集い、ただ平民の自分ひとりの温もりを求めて子供のように無防備な寝息を立て始めているのだ。
「……本当にお疲れ様です、皆さん」
リリアナは困ったように、けれど胸いっぱいに広がる愛おしさに口元を綻ばせながら、カミルの金髪をそっと撫で、レオナルドの手に力を込め、ジークハルトの逞しい胸に身を委ねた。
パチパチと薪が爆ぜる音と、ストーブの優しい温もり。
冬の終わりの静かな午後、重なり合う体温の中で、四人の穏やかで甘い微睡みは、どこまでも深く続いていった。




