魔導工房の秘密基地と、王弟の手料理挑戦
ジークハルトの手厚い看病に、レオナルドの執務室での甘やかな逢瀬。
その二つの出来事を知ったカミルが黙っているはずもなかった。
「二人ばっかりずるい! 僕だけ仲間外れなんて絶対に許さないんだからね!」
午前中の仕込みを終えたばかりの『緑の天幕亭』の厨房に、青白い転移光とともに現れたカミルは、開口一番そう言って頬を膨らませた。
そしてリリアナが宥める間もなく、彼女の手首をきゅっと掴むと、瞬き一つの間に空間を飛び越えてしまったのである。
視界が戻った場所は、王立魔導院の最上階――立ち入りを許された者が国中で片手で数えるほどしかいないという、カミルの個人研究室だった。
天井には満天の星空を模した淡い燐光が漂い、壁一面の書架には古今東西の魔導書が整然と並んでいる。
床にはふかふかの青い絨毯が敷き詰められ、普段の偏屈な天才のイメージとはかけ離れた、まるで秘密基地のような居心地の良い空間が広がっていた。
「ここ、僕の研究室の最奥。国王兄上でも許可がないと入れない結界が張ってあるんだ。……今日はお姉さんを僕が独占する日!」
得意げに胸を張るカミルだったが、その手にはなぜか、サイズが明らかに合っていない大きな木綿のエプロンが握られていた。
「カミルさん、まさか……そのエプロンは?」
「いつもお姉さんに美味しいものをもらってばかりだからね。病み上がりのお姉さんを労うために、今日は僕が最高のお茶菓子を作ってごちそうするの!」
天才魔導士が、自らの手で菓子作りに挑むという。
前世で、普段はコードばかり書いている天才肌の若手プログラマーが「たまには自炊します」と張り切ってキッチンを壊しかけていた光景を思い出し、リリアナは微笑ましさと一抹の不安を覚えた。
「お気持ちはとても嬉しいですけれど、無理はなさらないでくださいね?」
「大丈夫! 僕の頭脳と魔導具があれば、お菓子作りなんて完璧に計算通りだよ」
そう自信満々に宣言したカミルだったが、調理が始まってわずか数分で、研究室は愛らしい大混乱に陥ることとなった。
「あわわ、温度調節魔法の出力が高すぎた……!?」
オーブン代わりに使った高密度加熱魔導炉から、カチカチに硬化して黄金の石像のようになったクッキーの残骸が現れる。
さらに、卵白を泡立てるために起動した風属性の攪拌装置が暴走し、雪のような白いメレンゲがふわりと部屋中へ舞い散りそうになった。
「きゃっ、カミルさん、出力を止めて!」
「と、止まらない! 術式の収束が――うわぁっ!」
慌てて駆け寄ったリリアナは、装置を止めようとして足を滑らせたカミルの身体を咄嗟に受け止めた。
どさりと絨毯の上に二人で倒れ込み、舞い散った小麦粉が粉雪のように二人の肩や髪へと降り注ぐ。
「……ぷっ、あはは! カミルさん、髪の毛が真っ白ですよ」
「うぅ……完璧なはずだったのに……全然うまくいかないよ……」
情けなさそうに眉を下げ、涙目でリリアナを見上げるカミル。
鼻の頭にちょこんと小麦粉を乗せたその姿は、悪戯に失敗した仔猫そのものだった。
リリアナは愛おしさに胸を締め付けられながら、自分の指先で彼の鼻先の粉をそっと拭ってあげた。
「お菓子作りはね、魔法の出力計算だけじゃなくて、素材のご機嫌を伺いながら優しく付き合うものなんですよ。……一緒に作りましょうか」
「……うん。お姉さんと一緒がいい」
二人は並んで作業台に立ち、今度はリリアナが手を取りながら作業を進めた。
カミルが繊細な魔力操作で弱火を保ち、リリアナが手早く生地を合わせる。
混ぜ合わせたのは、卵とミルク、少量の蜂蜜、そして心を穏やかに整えるカモミールの粉末。
ふっくらと焼き上がったのは、黄金色に輝くスフレパンケーキだった。
皿を揺らすと、ぷるぷると愛らしく震えるほど柔らかい。
部屋の中央にあるローテーブルに並べ、リリアナが淹れた温かなハーブミルクとともに腰を下ろす。
「カミルさん、一口どうぞ。カミルさんが一生懸命魔力を調節してくれたから、こんなにふわふわに膨らみましたよ」
リリアナがフォークで切り分けた一口を差し出すと、カミルはおずおずと口を開けて頬張った。
口に入れた瞬間、優しい甘みとミルクのコクが舌の上でしゅわりと溶け去っていく。
「……すっごく、おいしい……! 僕、ちゃんとお姉さんのお役に立てた?」
「ええ、最高の助手さんでした」
リリアナがにっこりと笑い、彼の金髪を優しく撫でたその瞬間だった。
カミルの青い瞳が、ふっと熱を帯びた色へと深まった。
カミルはリリアナの手首をそっと引き寄せると、そのまま彼女の膝の上へと自ら滑り込んできた。
背中に腕を回し、リリアナの胸元に顔を埋めながら、甘えるように、けれど逃がさない強さでぎゅっと抱きしめる。
「お姉さん、僕を一番好きになってよ」
「カミルさん……?」
「ジークハルトもレオナルド閣下も、みんなずるい大人だから嫌いだ。僕だけを見て、僕だけに美味しいものを作って……僕のこの部屋に、ずっと閉じ込められていてよ」
くぐもった声で囁くカミルは、顔を上げると、リリアナのうなじへそっと唇を落とした。
甘えたがりな少年の顔の裏に潜む、一人の男としての激しい執着と情熱。
首筋に触れた熱い吐息に、リリアナの背筋を甘い痺れが駆け抜ける。
「もう……カミルさんったら、そんな我儘を言って」
「我儘じゃないもん、本気だもん。……ねぇ、お姉さんの手から、もう一口食べさせて? 食べさせてくれたら、今日だけは帰してあげる」
上目遣いにねだるカミルの愛らしさに抗えるはずもなく、リリアナは赤くなった頬を隠すように苦笑しながら、再びフォークを手に取るのだった。
星屑のような光が瞬く秘密の工房で、二人の甘い微睡みは、夕闇が訪れるまでどこまでも穏やかに続いていった。




