宰相の執務室と、届けられたハーブの焼き菓子
ジークハルトの手厚くも過保護な看病のおかげで、リリアナの熱は翌朝にはすっかり引き、二日後には心身ともに元の元気を取り戻していた。
病床にあった間、店にはレオナルドから最高級の薬膳果実や滋養あふれる蜂蜜が馬車一杯分も届けられていた。
だが、本人は国政の決算期が重なった激務により、城の最奥にある執務室から一歩も出られない状態だと聞かされていた。
心配をかけた申し訳なさと、誰よりも過酷に働いている彼への労わりの想いが、リリアナの胸をちくりと刺す。
(……前世の私なら、納期前に栄養ドリンクだけで徹夜を重ねていた頃だわ)
じっとしていられなくなったリリアナは、厨房に立ち、疲労困憊の頭を優しく解きほぐす焼き菓子を仕込んだ。
乾燥させたラベンダーの花粒を細かく砕き、すりおろしたレモンの皮と発酵バターを練り込んだショートブレッド。
合わせるのは、神経の昂ぶりを鎮める薄紫色の安眠ハーブティーの茶葉だ。
レオナルドからあらかじめ手渡されていた公爵家の紋章入り通行証を携え、王宮の最深部――筆頭宰相執務室を訪ねると、重厚な扉の前に立つ近衛兵たちはリリアナの姿を見るなり深々と頭を下げ、恭しく扉を開け放った。
「失礼いたします……」
控えめに足を踏み入れた部屋の中は、息が詰まるほどの緊張感に満ちていた。
天井まで届く本棚、執務机の上にうず高く積み上げられた書類の山。
そして机の向こうには、冷徹そのものの眼光で部下の官僚たちに矢継ぎ早の指示を飛ばすレオナルドの姿があった。
完璧に整えられた濃紺の三つ揃え、氷のように冴えた銀の瞳。
他者の甘えを一切許さぬ「氷の宰相」の冷徹な仮面がそこにあった。
だが、部屋に入ってきたリリアナの姿を視界に捉えた瞬間、その仮面は音を立てて粉々に砕け散った。
「――リリアナ!?」
持っていた羽ペンを放り出し、レオナルドは椅子を引いて立ち上がった。
官僚たちが呆気にとられるのも構わず、大股で歩み寄ると、リリアナの前に膝をつくようにしてその両手をきゅっと握りしめた。
「どうしてここに……身体はもう大丈夫なのか? 熱は下がったのか? まだ顔色が万全ではないように見えるが、無理をして歩いてきたのではないだろうな」
「レオさん、落ち着いてください。熱はすっかり下がりました。……お仕事中にお邪魔してしまって、ごめんなさい」
怯える官僚たちを手で払って即座に退室させたレオナルドは、部屋の重い扉が閉ざされた瞬間、ふっと全身の力を抜いてリリアナの腰へと腕を回した。
「すまない、取り乱した。……君が倒れたと聞いた時、すべての政務を放り出して駆けつけたかった。ジークハルトから『安静が必要だ』と止められ、どれほど己の無力さを呪ったか……」
広い胸板に額を押し当てられ、リリアナはくすりと微笑みながら、彼の美しい濃紺の髪にそっと指先を滑らせた。
触れた頭からは、張り詰めた思考の熱が伝わってくる。
「たくさんのお見舞いの品、ありがとうございました。お礼と言ってはささやかすぎますけれど……レオさんのために、お菓子とお茶をお持ちしたんです」
運んできたバスケットから、保温魔法をかけたポットと、焼き立てのショートブレッドを取り出す。
執務室の革張りソファにレオナルドを座らせ、小皿に菓子を並べて湯気を立てるお茶を差し出すと、部屋いっぱいにレモンとラベンダーの爽やかな香りが広がった。
「召し上がってみてください。頭の芯がすっと軽くなりますよ」
レオナルドは促されるまま、香ばしい焼き菓子を一つ手に取って口へと運んだ。
サクッと崩れる繊細な生地から、濃厚なバターのコクと、鼻に抜ける爽やかな柑橘の香りが広がる。
追うように温かなハーブティーを含むと、数日間張り詰めっぱなしだった頭の痛みが、嘘のように引いていくのを感じた。
「……美味い。胸の奥の重苦しい澱みが、溶けていくようだ」
ため息とともに零れた声は、酷く甘く掠れていた。
カップをテーブルに置いたレオナルドは、リリアナの手首をそっと引き寄せ、自分と同じソファへと腰掛けさせた。
そして躊躇うことなく、リリアナの柔らかな膝の上へと自らの頭を預けてきたのだ。
「えっ……レ、レオさん!?」
「少しだけ、こうさせてほしい。……君の温もりが恋しくて、気が狂いそうだった」
国政を一身に背負う筆頭公爵が、子供のように無防備に目を閉じ、リリアナの膝にすりすりと頬を寄せる。
銀色の長い睫毛が影を落とし、疲弊を滲ませた寝顔は驚くほどあどけない。
「ジークハルトばかりに君の看病を独占されたのが、狂おしいほど悔しかった。
……次は、私が君を看病したい。いや、君が病気にならないよう、私の邸に囲い込んで四六時中甘やかしてしまいたい」
「もう……そんな過保護なことを仰らないでください。レオさんこそ、少し眠ってくださいね」
リリアナが優しく囁きながらそのこめかみを撫でると、レオナルドは心地よさそうに喉を鳴らし、彼女の空いた指先を自らの唇へと運んで熱い口づけを落とした。
「君の手のひらは、どんな名薬よりも私を安らかにしてくれる。……愛しているよ、リリアナ」
冷徹な宰相の仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の男として捧げられる甘美で重厚な情愛。
窓の外に広がる王都の冬空を眺めながら、リリアナは膝の上で静かに寝息を立て始めた彼を見つめ、胸いっぱいに広がる愛しさにそっと目を細めるのだった。




