凍てつく朝のスープと、騎士の不器用な看病
夜会が明けた翌朝、窓の外は薄く青みがかった冬の霧に包まれていた。
目覚めた瞬間、リリアナは頭の奥をじんわりと締め付ける重い熱っぽさに気づいた。
喉がかすかに渇き、布団から腕を出すだけで寒気が肌を粟立たせる。
(……あちゃあ、やってしまったみたい)
夜会の華やかさに神経を張り詰めさせ、安堵した途端に気が抜けてしまったのだろう。
前世の記憶が嫌な生々しさで脳裏をよぎる。
あの頃は三十八度の熱があろうと解熱鎮痛剤を流し込み、満員電車に揺られてオフィスへ向かっていた。
「休んだら迷惑がかかる」「私ひとりの代わりなんていくらでもいるけれど、穴を開けたら居場所がなくなる」と自分を追い詰め続けていたのだ。
その染み付いた癖で、リリアナはふらつく足に力を込めて寝台から這い出た。
仕込みをしなければ、常連さんたちを待たせてしまう――そう思って寝間着の上にカーディガンを羽織り、階段の手すりにすがって一階へと降りようとした、まさにその時だった。
カチャリ、と合鍵で店の表扉が開く音がした。
「リリアナ、入るぞ。朝の薪を届けに……」
入ってきたのは、黒い革の私服に身を包んだジークハルトだった。
非番であるにもかかわらず、その引き締まった肉体からは凛とした空気が漂っている。
だが、階段の途中で青ざめた顔をして足を止めているリリアナを目にした瞬間、彼の琥珀色の瞳が見開かれた。
「リリアナ!?」
手にした薪の束を床へ置き、ジークハルトは目にも留まらぬ速さで駆け上がってきた。
崩れ落ちそうになったリリアナの身体を、逞しい腕がすくい上げるように軽々と抱き留める。
「身体が酷く熱い。……息も荒いな」
「ジークハルトさん……ごめんなさい、少しだけ頭がぼうっとして……お店の鍵を開けなきゃって……」
「馬鹿を言うな。店のことなどどうでもいい」
低く険しい声だったが、そこには怒りではなく、胸を引き裂かれるような焦燥と深い慈しみが滲んでいた。
ジークハルトはリリアナを壊れ物を扱うように両腕に抱き抱えたまま、二階の私室へと戻ると、柔らかな羽毛布団の中へとそっと横たえた。
首元まで布団を引き上げ、自らの手袋を脱ぐと、熱を持ったリリアナの額へ、大きな掌をそっと当てる。
タコだらけの無骨な皮膚はひんやりと冷たく、あまりの心地よさにリリアナは思わず吐息を零した。
「微熱があるな。昨夜の無理がたたったのだろう。……私が気づいてやるべきだった。すまない」
「そんな、謝らないでください……私が自分で体調管理を怠っただけですから」
「自分を責めるな。君はいつも他人のことばかりで、自分の痛みを後回しにする」
ジークハルトは苦しげに眉を寄せると、寝台の脇に膝をつき、リリアナの小さく熱い手を両手で包み込んだ。
「レオナルド閣下とカミル殿下には、私から連絡を入れておく。
あの二人を呼べば騒がしくなって君が休めないからな。
……今日は私が一日、君の側にいる。何も心配せず、目を閉じていろ」
その宣言通り、歴戦の騎士団長は、自らのすべてを投げ打って看病に没頭し始めた。
水差しに汲んできた冷たい水で手拭いを濡らし、リリアナの額に乗せる。
そして「腹に何か入れねば薬も飲めまい」と呟くと、手狭な厨房へと降りていった。
しばらくすると、階段の下からトントン、コトコトと、不器用ながらも一定のリズムを刻む包丁の音が聞こえてきた。
一刻ほど経った頃、ジークハルトがお盆を手に戻ってきた。
木製の深皿から立ち上っていたのは、どこか懐かしく優しい根菜の香りだった。
「……料理など、野営の雑炊くらいしか作ったことがないのだが。君の台所にあった野菜と、胃に優しいハーブを使わせてもらった」
見れば、人参や蕪が、大柄な騎士の手で作られたとは思えないほど丁寧に細かく刻まれている。
弱火でじっくり煮込まれたスープは琥珀色に透き通り、乾燥させたタイムと少量の生姜、そして鶏の出汁が優しく溶け込んでいた。
「起こせるか? 無理なら私が支える」
ジークハルトはリリアナの背中に逞しい腕を回し、自分の広い胸に寄りかからせるようにして上半身を起こしてくれた。
そして、木のスプーンですくったスープを、フーフーと何度も丁寧に息を吹きかけて冷ます。
「熱くないか? ……ほら、口を開けてくれ」
大人の女性がここまで過保護に食べさせてもらうなど気恥ずかしさでいっぱいだったが、真剣そのものの琥珀色の瞳に見つめられ、リリアナはおずおずと唇を開いた。
じんわりとした旨味と、野菜の素朴な甘みが口いっぱいに広がる。
喉を通って胃の腑に落ちると、冷え切っていた手足の先へ、ぽかぽかとした体温が巡っていくのが分かった。
「……すごく、美味しいです。ジークハルトさん、お料理もお上手なんですね」
「君に喜んでもらえるなら、腕を磨いた甲斐がある」
ジークハルトの唇が、ふっと柔らかく綻んだ。
最後の一滴まで丁寧に食べさせ終えると、彼はリリアナを再び横たえ、額の手拭いを取り替えてくれた。
前世では、熱を出して一人で泣きながら冷えピタを貼り、誰もいない暗い部屋で天井を見つめていた。
誰かに弱音を吐くことも、甘えることも許されなかった日々。
それなのに今、この世界の英雄とも呼ばれる誇り高き男が、一介の平民である自分のためだけに膝をつき、汗を滲ませてスープを作り、手を握り続けてくれている。
「……どうして、そんなに優しくしてくださるんですか」
掠れた声で零すと、ジークハルトは息を呑むほど優しい眼差しをリリアナに向けた。
そして、そっと顔を寄せると、熱を測るように、自らの額をリリアナの額へこつんと重ね合わせた。
至近距離で見つめ合う瞳。
肌と肌が触れ合う熱さに、リリアナの心臓がトクンと大きく跳ねる。
「優しくなどではない。君が苦しんでいる姿を見るのが、たまらなく辛いだけだ」
低く、胸の奥を震わせるような囁きが耳朶を打つ。
「君の笑顔を守るためなら、私は命だって投げ出せる。だからリリアナ、頼むから私の前では強い女性でいようとするな。……いくらでも、私に甘えてくれ」
無骨な大きな手が、リリアナの頬をそっと包み込み、熱を帯びた涙の跡を親指で優しく拭った。
胸の奥に溢れ出す安らぎと、あまりにも甘い情愛に包まれながら、リリアナは重たくなってきた瞼をゆっくりと閉じた。
守られているという絶対的な幸福感の中で、彼女は久しぶりに、深く穏やかな微睡みへと落ちていくのだった。




