雪解けを待つ夜と、四人だけの後夜祭
宮殿の眩い光と喧騒をあとにした馬車が、静まり返った下町の路地裏へと滑り込んだ。
見慣れた石畳に車輪の音が止まり、扉が開いた瞬間、頬を撫でたのは澄み切った冷たい夜気だった。
王宮の重苦しい芳香や熱気とはまるで違う、どこまでも静かで清らかな空気。
店の看板に彫られた『緑の天幕亭』の文字を目にした瞬間、リリアナの肩からふっと余分な力が抜けていった。
「……ただいま、私の小さなお城」
小さく呟いたリリアナの腰に、背後から降り立ったレオナルドがそっと手を添える。
礼服のマントを翻しながら、彼は銀の瞳を柔らかく細めた。
「おかえり、リリアナ。……さあ、冷えないうちに中へ入ろう」
鍵を開けて店内に足を踏み入れると、カミルが指先をパチンと鳴らし、消えかけていた薪ストーブに魔導の小さな火種を灯した。
橙色の柔らかな光が瞬く間に広がり、冷え切っていた空気をじんわりと温め始める。
二階の私室へと上がったリリアナは、慣れない夜会用のドレスとコルセットを脱ぎ捨て、いつもの洗いざらしの木綿のワンピースへと着替えた。
ガラス靴を脱ぎ、履き慣れた革のスリッパに足を通す。
髪を結い上げていた華美な銀のピンを外し、いつものようにリボンで緩く束ね直すと、ようやく心も身体も自分の輪郭を取り戻したような気がした。
一階へ降りると、そこには到底宮廷では見られない光景が広がっていた。
レオナルドは豪奢な飾緒や勲章を外し、シャツの首元のボタンを二つ寛げて椅子の背にもたれている。
ジークハルトは窮屈な白銀の軍服上着を脱ぎ捨てて黒いシャツ姿になり、慣れた手つきでストーブに薪をくべていた。
そしてカミルは、正装のケープを放り出し、すでにカウンター席の椅子に丸くなってリリアナを待っていた。
「お姉さん、おかえり! やっぱりいつものお姉さんが一番落ち着くよ」
カミルが青い瞳を輝かせ、駆け寄るなりリリアナの腰に腕を回してぎゅっと抱きついてくる。
「ただいま、カミルさん。皆さん、今夜は本当にありがとうございました。……少しお腹、空きませんでしたか?」
「ああ。宴席の料理など、毒味と社交の道具にすぎないからな。ほとんど喉を通らなかった」
ジークハルトが立ち上がり、無骨な手で首筋を鳴らしながら苦笑する。
「では、昨日の仕込みの残りでよろしければ、温かいスープを温め直しますね」
リリアナが厨房に入り、小鍋の蓋を開けた。
前日のうちにコトコトと煮込んでおいたのは、甘みの乗った蕪や人参、玉ねぎと、柔らかな鶏肉を香草とともに煮込んだ滋味深いポトフだった。
弱火にかけて温め直し、すりおろした生姜と刻んだパセリを散らす。
湯気を立てる木製の深皿と、少し硬めの黒パンを運ぶと、三人の表情が雪解けのように綻んだ。
「いただきます」
木のスプーンで口へと運ぶ。
派手さなど何一つない、素材の甘みと塩気、そしてハーブの優しい香りが溶け合った素朴なスープ。
だが、冷えた喉を通り胃の腑に落ちた瞬間、三人は揃って深いため息をついた。
「……五臓六腑に染み渡るな。宮廷の豪勢な料理を幾皿並べられても、この一杯の温かさには敵わない」
ジークハルトが目を細め、最後の一滴まで愛おしそうに飲み干す。
「君の作るものは、身体だけでなく心の奥まで解きほぐしてくれる。
……今夜、君が路地裏に残る道を選んでくれて、心底安堵したよ。
もし宮廷に囚われてしまっていたら、こんな穏やかな時間は失われていた」
レオナルドがリリアナの手をテーブルの上で包み込み、熱を帯びた銀の瞳で見つめてくる。
「僕も! お城の部屋なんて息が詰まるもん。ここでお姉さんに美味しいものを食べさせてもらって、頭を撫でてもらえるのが一番の幸せだよ」
カミルがリリアナの膝の上に頭を預け、猫のように喉を鳴らす。
「ふふ、皆さん、本当にお疲れ様でした」
前世で孤独にすり減り、冷え切った夜を一人で耐えていたリリアナ。
けれど今夜は、ストーブの柔らかな炎と、惜しみない情愛を注いでくれる殿方たちの熱い体温に包まれている。
窓の外では冬の夜空に細雪が舞い散る中、四人だけの小さな茶房は、どこまでも深く、甘やかな幸福に満ちていた。




