国王夫妻の謁見と、路地裏の誇り
華やかなワルツの余韻が広間に残る中、楽団の演奏が静かに止み、厳かなファンファーレが大理石の柱を震わせた。
広間の一段高い壇上に設けられた豪奢な天幕の前へと、リリアナは導かれた。
右隣には落ち着いた佇まいで歩調を合わせるレオナルド、左隣には油断なく視線を巡らせるジークハルト、そして半歩後ろから慈しむように見守るカミル。
国を支える三人の絶対的な存在感に挟まれ、リリアナは深紅の絨毯の上を静かに進んだ。
玉座に腰掛けていたのは、威厳に満ちた白髪の国王と、穏やかな慈愛の微笑みをたたえた王妃だった。
二人の前で足を揃え、教わった通りの優美なカーテシーを捧げると、国王の深い声が頭上から降ってきた。
「面を上げよ、緑の天幕亭の主、リリアナ」
促されて顔を上げると、国王夫妻の瞳には、詮索や威圧の色は微塵もなく、純粋な感謝と感嘆の光が湛えられていた。
「今宵の祝祭茶、見事であった。連日の公務と重なる宴席で重湯すら通らぬほど弱っていた我が胃の腑が、そなたの一杯でこれほど温まり、軽くなるとはな。……それに何より、そなたには礼を言わねばならぬ」
国王は視線を巡らせ、リリアナを囲む男たちを見つめた。
「不眠で倒れかけていた余の優秀な宰相を救い、過酷な防衛線で心を擦り減らしていた騎士団長に笑顔を取り戻させ、研究に没頭して部屋から出てこなかった我らが愚弟に人肌の温もりを教えた。
そなたが我が国の柱石たちに与えてくれた癒やしは、軍団一つを動かすよりも遥かに尊い功績である」
「恐れ多いお言葉でございます、陛下」
深々と頭を下げるリリアナに対し、今度は王妃が身を乗り出し、鈴を転がすような優しい声で語りかけた。
「そこでじゃ、リリアナ。そなたを王宮筆頭茶師として召し抱え、名誉貴族の爵位を授けたいと思うのじゃ。
王宮の一角にそなた専用の薬草園と豪奢なサロンを用意しよう。
平民という身分を脱し、この宮廷で不自由なく暮らしてはくれぬか?」
広間全体に、息を呑むような微かなざわめきが広がった。
平民の娘が、一夜にして王宮の重鎮となり、貴族の列に加わる破格の出世。
富も名誉も安全も、すべてが約束される至上の栄誉だった。
リリアナの隣で、レオナルドの指先がわずかにピクリと動いた。
ジークハルトもまた、息を詰めてリリアナを見つめている。
カミルに至っては「お城に住んでくれるの……?」と期待に青い瞳を揺らしていた。
彼らにとって、リリアナが宮廷に入ってくれれば、いつでも彼女を自らの腕の中に囲い込むことができる。
だが、三人は誰一人として彼女に宮廷入りを促すような言葉を挟まなかった。
彼女が何を大切にし、どんな想いで日々の茶を淹れているのかを、誰よりも理解していたからだ。
リリアナは静かに胸元に手を当て、前世の記憶を胸の奥で反芻した。
名誉や地位、組織の階段を登ることだけに追われ、擦り切れた末に命を落としたあの冷たい日々。
自分が本当に欲しかったのは、誰かに誇るための肩書などではなかった。
「……過分なお心遣い、心より御礼申し上げます。ですが陛下、王妃様。甚だ不遜ながら、そのお申し出をお受けすることは叶いません」
凛とした声が大広間に響き渡り、貴族たちの間にどよめきが走った。
しかしリリアナの瞳には、一片の迷いもなかった。
「私が営む『緑の天幕亭』は、下町の片隅にある小さな店でございます。
そこに名誉貴族の看板が掲げられ、私が雲の上の身分になってしまえば……日々の労働で身体を痛めた石畳の職人や、仕事に追われて肩を落とした名もなき人々が、気兼ねなく扉を開けることができなくなってしまいます」
リリアナは柔らかな、けれど芯の通った微笑みを国王夫妻へと向けた。
「身分や肩書をすべて脱ぎ捨てて、ただ『疲れた一人の人間』として息を抜ける止まり木であること。
それこそが、私の店の存在理由であり、私の誇りでございます。
どうかこれからも、路地裏の平民の茶房として、皆さまをお迎えすることをお許しいただけないでしょうか」
静寂が場を包み込んだ。
やがて、国王の喉から低く深い笑い声が溢れ出した。
「わっはっは! 見事だ。名誉も富も惜しげもなく手放し、ただ人々の安らぎのために路地裏に立つか。
……なるほど、レオナルドたちが骨抜きにされるわけだ。
欲に塗れた宮廷の誰よりも、そなたの魂は気高く清らかだ」
王妃もまた、愛おしそうに目を細めて頷いた。
「良き答えを聞かせてもらいました。そなたのその温かな誇り、決して誰にも穢させはいたしません」
謁見を終え、壇上から降りた瞬間、リリアナの身体は背後から伸びてきた力強い腕によって、そっと包み込まれた。
「……君らしい、素晴らしい答えだったよ、リリアナ」
レオナルドが銀の瞳を細め、耳元で誇らしげに囁く。その声は蕩けるような愛しさに震えていた。
「ああ。君のその誇りを守るためなら、私はどんな敵からもあの路地裏を守り抜こう」
ジークハルトが隣で逞しい胸を張り、眩しそうにリリアナを見つめた。
「お城に来てくれないのはちょっぴり寂しいけど……でも、僕の好きになったお姉さんは、やっぱり世界で一番かっこいいよ!」
カミルが無邪気にリリアナの手を握りしめ、甘えるように顔を寄せてくる。
身分の高い地位を捨ててでも守りたかった、路地裏の小さな居場所。
そして、その選択を何よりも尊び、丸ごと愛してくれるかけがえのない殿方たち。
冬の宮殿のまばゆい光の下で、リリアナの胸はこれ以上ないほど温かく満たされていた。




