宵闇の馬車と、手袋越しの誓い
冬至祭の当夜、深く沈んだ藍色の夜空に、凛とした冬の星々が瞬いていた。
『緑の天幕亭』の二階にある私室で、リリアナは全身鏡の前に立ち、小さく息を吸い込んだ。
鏡の中に映っていたのは、普段の木綿のエプロン姿からは想像もつかない、淡い若草色のベルベットドレスに身を包んだ自分の姿だった。
仕立屋が丹精込めて縫い上げた生地は、ランプの柔らかな灯りを受けて露に濡れた若葉のようにしっとりと艶めき、胸元と袖口には銀糸の繊細な刺繍が施されている。
足元には、カミルが作ってくれた特製のガラス靴。
驚くほど軽やかで、まるで柔らかな草の上を踏みしめているかのように温かく、足の裏を優しく包み込んでいた。
締め付けられるはずのコルセットも、仕込まれた術式のおかげで深呼吸ができるほど心地よい。
(……本当に、あの三人にどれだけ甘やかされているのかしら)
前世の記憶がふと蘇る。残業続きの夜、誰にも見られることのないボロボロのスーツを着て、終電の窓に映るやつれた自分の顔に目を背けていたあの頃。
それに引き換え、今の自分は、国で最も尊い男たちが心を砕いて用意してくれた温もりに、頭の先から爪先まで守られている。
静かな石畳の路地に、規則正しい馬蹄の音が響いた。
カーテンの隙間から覗くと、漆黒の車体に金色の公爵家の紋章が誇らしげに刻まれた、巨大で豪奢な馬車が店の前に停まったところだった。
一階へと降りて店の鍵を開けると、冷たい夜風とともに、正装を纏ったレオナルドが立っていた。
濃紺の礼服に銀の飾緒、胸元には筆頭宰相と公爵の地位を示す豪奢な勲章が輝いている。
普段の知的な佇まいに加えて、王族すら傅かせるほどの圧倒的な気品と覇気が満ちていた。
だが、扉を開けたリリアナの姿を捉えた瞬間、その冴えた銀の瞳が大きく揺らぎ、息を呑む気配が静寂の中に落ちた。
「……リリアナ」
低く掠れた声で名を呼ばれ、リリアナは気恥ずかしさに指先をきゅっと握りしめた。
「あの……おかしなところはありませんでしょうか? 普段着慣れないものばかりで、少し落ち着かなくて……」
「おかしいはずがないだろう。……あまりの美しさに、言葉を失っていた」
レオナルドは歩み寄ると、夢見るような眼差しでリリアナを見下ろした。
氷の宰相と呼ばれ、いかなる交渉の場でも眉一つ動かさない男が、まるで奇跡を前にした少年のように熱っぽく頬を染めている。
「森の奥に咲く一輪の白百合のように清らかで、可憐だ。
……君をこのまま夜会へ連れて行けば、王宮中の男たちが君に目を奪われてしまう。
今すぐにでもこの外套の中に隠して、私の屋敷へ連れ去ってしまいたい衝動と戦っているよ」
「もう、レオさんったら……そんな大袈裟なことを仰らないでください」
リリアナが困ったように微笑むと、レオナルドは優しく目を細め、白革の夜会用手袋を嵌めた自分の手を差し出した。
「さあ、行こう。私の世界でたった一つの宝物」
差し出された手に導かれ、馬車へと乗り込む。
ふかふかの革張りのシートに腰掛けると、扉が静かに閉ざされ、車内は二人きりの甘やかな密室となった。
備え付けられた小型の魔導暖房が柔らかな温もりを放ち、外の厳しい寒さを完全に遮断している。
向かい合って座るはずのレオナルドは、迷うことなくリリアナのすぐ隣へと腰を下ろした。
触れ合う肩から伝わってくる体温に、リリアナの心臓がトクンと小さく跳ねる。
「緊張しているかい?」
「はい……少し。貴族の方々の社交場など、平民の私には未知の世界ですから」
「何も恐れることはない。
城ではすでにジークハルトが近衛の配備を完了させて君を待ち構えているし、カミルも大広間の最前列で君を探しているはずだ。
……もちろん、私の傍から一歩も離すつもりはないがね」
過保護すぎる名前が次々と挙げられ、リリアナは思わずくすりと笑ってしまった。
「ふふ、心強いです。皆さん、本当に私のためにそこまで……」
「当然だ。君は私たちにとって、凍りついていた命を救ってくれた恩人であり……それ以上に、心から愛しい女性なのだから」
レオナルドはそう囁くと、リリアナの白い絹手袋に覆われた右手をそっと引き寄せた。
そして、彼自身の白革の手袋を口で咥えて優雅に脱ぎ捨てると、熱を帯びた素肌の指先で、リリアナの手袋のボタンを一つひとつ外していく。
冷気に晒されたリリアナの指先が露わになった瞬間、レオナルドはそれを己の両手で包み込み、引き寄せて額を押し当てた。
そして、人差し指から薬指へと、慈しむように、けれど激しい独占欲を滲ませた熱い唇を落としていく。
「んっ……レオさん……」
「今夜、君を蔑むような眼差しを向ける者がいれば、私がそのすべてを容赦なく排除する。君はただ、私の隣で、君のままで笑っていてくれればいい」
顔を上げたレオナルドの銀の瞳には、筆頭公爵としての絶対的な矜持と、リリアナだけに捧げられた底なしの情愛が宿っていた。
手袋を外された指先から、唇が触れた熱がじんわりと全身へと駆け巡っていく。
窓の外では、王宮の尖塔が冬の夜空に白く浮かび上がっていた。
雲の上の殿方たちからの深すぎる愛情に守られながら、リリアナを乗せた豪奢な馬車は、光り輝く宮殿の門へと静かに滑り込んでいった。




