第8話 破滅への暴走
「あんな女……! あんな泥臭い、草摘みの平民女に、この私が……っ!」
夜会会場を逃げ出した伯爵令嬢シエルカは、館の北へと続く暗い廊下を狂ったように走り続けていた。
その顔は怒りと屈辱、そして全身を苛む激しい不快感で醜く歪んでいた。
胸元に飾られていた大粒の『パライゾ・ルビー』はすでに引きちぎり、床へ投げ捨ててある。
だが、エルネに「魔力を無差別に吸引する寄生鉱石」だと指摘された恐怖は、なおも彼女の皮膚に不気味なチクチクとした痛みを残していた。
香水の甘くむせ返るような匂いが鼻につくたび、「皮膚が黒く腐り落ちる」という言葉が脳裏をよぎり、発狂しそうな衝動に駆られる。
「嘘よ、嘘に決まっているわ! あの女は私を陥れるために、あんなデタラメを……! それなのにアルディス様まで……! 私ではなく、あんな女の肩を持つなんて……っ!」
シエルカは壁に拳を叩きつけた。
指先が赤く滲むのも構わず、荒い息を吐き出す。
今夜の夜会は、彼女にとって完璧な舞台になるはずだった。
招待状すら届いていなかった館に強引に潜り込む。
大勢の貴族たちの前で、あの冷酷無比な騎士団長アルディスに擦り寄る無知な平民女を叩きのめす。
恥をかかせ、踏みにじり、己の格の違いを見せつけてやる。
はずだったのだ。
それなのに、結果はどうだ。
恥をかいたのは自分だった。
周囲の貴族たちから向けられたのは、賞賛でも同情でもなく、「毒を撒き散らす愚か者」を見る哀れみと恐怖の視線。
「許さない……許さないわ、エルネ……! あなたさえいなければ! あなたさえこの世から消えてなくなれば、アルディス様は私の素晴らしさに気づいてくださるのに……!」
憎悪の炎が、シエルカの理性を完全に焼き尽くしていた。
もう引き返せない。ただ恥をかかされただけでは収まらなかった。
あの女を、己の手で死よりも深い絶望へと突き落とさなければ。
この胸の収まらない怒りの酷寒は癒えない。
――だが、どうやって?
エルネにはあのアルディスがついている。
ただの暗殺者やごろつきを雇ったところで、彼の剣と魔導の前に瞬殺されるのは目に見えていた。
アルディスの目を盗み、なおかつあの女を確実に、形も残らないほど影も形もなく消し去る方法——。
その時、シエルカの脳裏に、幼い頃に父親から聞いた「この館の噂」が蘇った。
この古き避暑地の館は、かつて古代の魔導士が実験場として使っていた遺構の上に建てられているということ。
そして、館の最下層には、決して開けてはならない「封印の地下室」が存在するということ。
『あそこには、古代の騎士団すら破滅させかけた最悪の魔獣が眠っている。触れてはならんぞ、シエルカ』
父親の警告が、今のシエルカには甘美な誘惑の囁きに聞こえた。
「そうよ……そうよ! あれを使えばいいのわ!」
シエルカは邪悪な笑みを浮かべた。
館の地下に眠る魔物を解放し、エルネをその魔物の餌食にしてしまえばいい。
「館に恐ろしい魔物が侵入し、運悪く平民の女が犠牲になった」
——そう仕立て上げれば、誰も自分を疑うことはできない。
アルディス様とて、死人を庇い続けることなど不可能なのだから。
「ふふふ……あはははは! 待っていらっしゃい、エルネ。今すぐ、あなたにふさわしい地獄を用意して差し上げますわ!」
狂気にとらわれた伯爵令嬢は、ドレスの裾を乱暴に持ち上げると、誰も近づかない館の地下へと続く、暗い階段を降り始めた。
館の地下は、上階の煌びやかな夜会会場とは完全に切り離された別世界だった。
冷たく湿った空気が肌にまとわりつき、松明の火も届かない漆黒の闇が広がっている。
壁は古い石造りで、足元を進むたびにカビと腐敗の匂いが鼻をついた。
「くさい……気味の悪い場所……」
シエルカは不快感に顔を顰めながらも、庭から拝借してしゃくしてきたランタンの明かりを頼りに奥へ奥へと進んだ。
手には、護身用として忍ばせていた、魔導の刻印が施された小剣を握りしめている。
地下二階、地下三階……。
階段を下りるごとに、温度は急激に下がっていった。
まるで生き物の体内に入り込んだかのような、重苦しい威圧感が空気を支配している。
普通の人人間であれば、本能的な恐怖で足がすくみ、引き返すような場所だ。
だが、今のシエルカを動かしているのは、恐怖を遥かに凌駕する狂気の憎悪。
やがて、最下層の突き当たりに、それは現れた。
高さ三メートルの巨大な黒鉄の扉。
表面には、何重もの複雑な魔導陣。
そして太い鎖が巻きつけられている。
扉の中央には、赤く不気味に光る魔石が嵌め込まれており、かすかな脈動を打っていた。
これこそが、かつてこの地方を恐怖に陥れ、大魔導士たちによって封印された最悪の魔物『アビス・スパイダー』の檻であった。
「……見つけたわ」
シエルカはランタンを掲げ、不気味にそびえ立つ封印の扉を見上げた。
扉の隙間から音がする。
ヒュウ、ヒュウ。
まるで地獄の底から聞こえてくるような不気味な風切り音が漏れ聞こえてくる。
同時に、肌を刺すような禍々しい魔力の残渣が、シエルカの身体を揺さぶった。
彼女の頭は恐怖に動じない。
すでにエルネへの復讐だけで満たされていたのだ。
「この扉の封印を少しだけ壊せばいいのね……。魔物が外へ飛び出し、あの女を食い殺す程度に……!」
シエルカは小剣を構え、中央で光る封印の核——赤晶魔石へと近づいた。
父親の話では、何かをすれば封印が解ける。
それ故に人は立ち入れない。
この封印は外部からの強力な物理撃破や、魔力の干渉によって均衡が崩れるのではないか。
「死になさい、エルネ……!」
シエルカは叫びながら、小剣の先を赤晶魔石のひび割れた中央へ深く突き立てた。
ズガァァァン……っ!
激しい火花が飛び散り、小剣に刻まれた主語の魔導刻印が過剰に反応して弾け飛んだ。
「きゃあああっ!?」
シエルカは衝撃波で後ろへ吹き飛ばされ、冷たい床に激しく叩きつけられた。
ランタンが割れ、周囲は一瞬で暗闇に包まれる。
「あ……が……っ」
肘を強打し、痛みに呻きながら立ち上がろうとしたシエルカの耳に、あり得ない音が届いた。
カチ……カチカチカチカチ……っ!
それは、何千、何万という鋭い爪が、石の床を掻きむしるような音。
「え……?」
シエルカが恐怖に固まりながら前方を見つめると、封印の扉に巻きつけられていた太い鎖が、次々と弾け飛んでいくのが見えた。
ギチチチチチ……ガガガガガガッ!
「嘘……そんな……封印を、少し傷つけただけなのに……!?」
シエルカは知らなかったのだ。
エルネが指摘した通り、彼女が身につけていた『パライゾ・ルビー』と『毒入り香水』によって、彼女自身の体内の魔力波長は異常なまでに乱れていた。
その乱れた魔力が、突きつき刺した小剣を通じて封印の魔石へ注ぎ込まれた。
その結果、複雑に組み上げられていた封印の数式が異常を起こし、連鎖的に崩壊してしまったのだ。
少し封印を解くどころの話ではない。
数百年間にわたって蓄積された封印のエネルギーが一気に逆流し、完全なる破滅の扉が開かれようとしていた。
ドォォォォォォンッ!!!!
重圧な黒鉄の扉が、内部からの凄まじい内圧によって吹き飛ばされた。
砕け散った石片がシエルカの頬を掠め、鮮血が舞う。
「ひっ……ひいいぃぃぃっ!?」
暗闇の向こう側から、ゆらりと現れたもの。
それは、部屋の天井に届くほど巨大な、漆黒の蜘蛛の影だった。
何十本もの真っ赤な単眼が、暗闇の中で不気味に蠢いている。
巨大な八本の脚は、一本一本が鋼鉄の槍のように鋭い。
口元からは緑色の猛毒の粘液が垂れ落ちていた。
粘液が床に触れるたび、ジュウと音を立てて石材が溶けていく。
最凶の古代魔獣『アビス・スパイダー』。
封印の解けた衝撃で、眠っていた魔物は目覚めていた。
「あ……あ……」
シエルカは腰が抜け、逃げることすらできずにへたり込んだ。
魔物が発する圧倒的な殺気と威圧感に、全身の血が凍りつく。
自分が何解き放ってしまったのか、その愚かさの代償の大きさを、彼女はここで初めて理解した。
アビス・スパイダーの無数の赤い目が、足元で震えるシエルカをとらえた。
カチリ、と巨大な毒顎が鳴る。
「来ないで……来ないでえええええっ! 助けて、アルディス様ぁぁぁぁぁっ!!」
シエルカの悲鳴が、地底の暗闇に虚しく響き渡った。
その頃、館の裏庭では。
「さあ、寒天茸も採れたことだし、冷えないうちに戻ろうか。明日の朝は、君の作ってくれる特別なスープを楽しみにしているよ」
「は、はい……! 一生懸命作りますね、アルディス様!」
月明かりの下、採取袋を大切に抱えるエルネと、彼女を慈しむように見つめるアルディス。
仲良く館へと歩いていくのだった。
ズズズズズズズズズ……っ!!!!
突如として、足元の大地が地鳴りを上げた。
「きゃっ!?」
「エルネ!」
アルディスは瞬時に反応し、倒れそうになったエルネの身体を抱き寄せた。
揺れは収まるどころか、次第に激しさを増していく。
館の建物全体が悲鳴を上げるように軋み、庭園の木々から鳥が一斉に飛び立った。
「な、何でしょう……!? 地震……?」
エルネが不安そうにアルディスを見上げる。
だが、アルディスの表情は一瞬で険しい「戦士の顔」へと変わっていた。
彼の金色の瞳が鋭く光り、館の最下層。
地底深くへと視線を向けられる。
「……違う。地震ではない。これは……魔力と、巨大な魔物の気配だ」
「魔物……? でも、ここは安全な避暑地の館のはずじゃ……」
「ああ、本来ならね。だが、地下深くで何かが起きた。非常に不快で、禍々しい魔力が解放されている」
アルディスはエルネを抱きしめる腕に力を込めた。
その直後、館の広場から凄まじい悲鳴と叫び声が巻き起こった。
「嫌ぁぁぁぁぁっ! 地鳴り!?」
「館が崩れるぞ! 逃げろ、外へ出ろ!!」
「助けてくれぇぇぇっ!」
夜会に参加していた貴族たちが、パニックに陥って館から吐き出されてくる。
華やかなドレスやタキシードは乱れ、互いを押し退けながら庭園へと逃げ惑う。
「アルディス様!」
混乱の渦の中から、館の主人であるヨークが、息を切らしながら駆け寄ってきた。
「ヨーク爺! 何が起きたんだ!?」
「わ、分からん! 突然、館の地下から激しい爆発音が響いたかと思うと、この大揺れが……! まさか、あの地下の封印が……!?」
「封印?」
アルディスが問い詰める前に、さらなる劇的な変化が館を襲った。
バリバリバリバリバリッ!!!!
激しい破壊音とともに、館の中央広場の石畳が内側から大きく爆開した。
巨大な石の破片が雨のように降り注ぎ、逃げ惑う貴族たちが悲鳴を上げる。
崩れ落ちた床の穴から、溢れ出してきたのは漆黒の、ドロリとした濃密な毒気だった。
「う……うあぁぁっ! 目が、目がぁぁっ!」
「息が……苦しい……っ!」
毒気を吸い込んだ何人かの貴族が、その場に倒れ込んで苦しみ出す。
「みんな、下がってください! その煙を吸ってはいけません!」
エルネは瞬時に叫んだ。
彼女の鑑定眼が、立ち上る黒煙の正体を即座に見抜いていたのだ。
「アルディス様、あれはただの煙じゃありません! 『アビス・ポイズン』という魔物の体内から分泌される、強烈な神経毒を含んだ濃縮魔力気体です! 風魔法で散らさないと、館の周りにいる人たちが全員危険です!」
「承知した!」
アルディスは即座に左手を掲げた。
「風よ、我が命に従い、穢れを払え——『サイクロン・バースト』!」
アルディスの掌から生み出された巨大な竜巻が、館の庭園を駆け抜けた。
立ち上っていた黒煙は一瞬にして上空へと吹き飛ばされ、空気中の毒気が薄れていく。
「はぁ……はぁ……たすかった……」
「さすが、騎士団長様だ……!」
命拾いした貴族たちが安堵の息を吐いたのも束の間。
穴の開いた地下深くから、地響きのような、地獄の咆哮が響き渡った。
ギシャアアアアアアアアアアアアアッ!!!!
「ひっ……!?」
その音だけで、館の残っていた窓ガラスが一斉に吹き飛んだ。
そして、崩れた床の穴から、ぬうっと姿を現したもの——。
それは、月明かりを浴びて黒光りする、巨大な八本の脚。
館の屋根すら見下ろすほどの巨体を持った、最凶の魔獣『アビス・スパイダー』であった。
その頭部の上には、完全に意識を失ったシエルカが、粘着性の糸で固められた状態でぶら下がっていた。
「な……なんだあの巨大な蜘蛛はぁぁぁぁっ!?」
「誰か捕まっているぞ!? なぜあんなところに!?」
叫び声が交錯する。
アビス・スパイダーの無数の赤眼が、庭園に集まる人々、そして、最も強大な魔力を発しているアルディスと、その隣にいるエルネをとらえた。
「……『アビス・スパイダー』か。古代の遺構に封印されていたという話は本当だったらしいな」
ヨークはこの地を守りながらもその存在を初めて確認していた。
アルディスはエルネを自分の背後へと庇いながら、静かに氷の剣を生成した。
その顔には一切の動揺はない。
あるのは、二人の時間を邪魔されたことに対する、底知れない不快感と殺気だけだった。
「アルディス様、気をつけてください!」
エルネはすかさずアビス・スパイダーへと視線を向け、その能力を分析、鑑定し始めた。
「あの魔物、体が鉄並みの硬度を持っています! 普通の物理攻撃や並の魔術では傷一つつけられません! さらに、お腹の糸袋からは触れたものを瞬時に溶かす『強酸糸』を噴射してきます!」
「なるほど、厄介な相手だな。弱点はどこか分かるかい?」
エルネは集中し、魔物の体内を巡る魔力の流れを見た。
「頭部の中央……あの無数の目の奥にある『赤色魔核』です! あそこ以外の攻撃は、すべて甲殻に阻まれて再生されてしまいます! でも、あそこには今、シエルカ様が捕らわれていて……!」
「まったく先に帰ったかと思えば。なぜあんなところに」
アルディスは冷ややかに鼻で笑った。
「もしやあの子が封印の場所に行ったのでは……」
ヨークには最悪の考えがよぎっていた。
「ここで死なれては王都への報告が面倒になるな」
アルディスは臨戦態勢になる。
ギシャアアアアッ!
アビス・スパイダーが激しく咆哮し、巨大な脚の一本を疾風のごとき速さで振るい下ろしてきた。
目標は、アルディスとエルネ。
丸太ほどもある鋼鉄の脚が、空気を切り裂いて迫る。
「危ないっ!」
「案ずるな」
アルディスは一歩も引かず、薙ぎ払う。
ギィンッ!!!!
澄んだ金属のような音が夜空に響き渡る。
アルディスの一撃は、アビス・スパイダーの巨脚を完璧に受け止めていた。
衝撃波が周囲の地面を激しく削り取るが、アルディスの足元は微動だにしない。
逃げ遅れていた貴族たちが、信じられないものを見る目で叫ぶ。
「なっ……騎士団長様が、あの巨大な脚を一本の剣で止めただと……!?」
「エルネ、俺から離れるなよ」
「はいっ!」
アルディスは剣を軽く捻り、魔物の脚を弾き返した。
だが、アビス・スパイダーもさるもの。
弾かれた反動を利用し、巨大な腹部をこちらへ向けた。
シュパパパパパッ!
お腹の先端から、大量の白く粘り気のある糸が、網のように広がって二人へ襲いかかる。
エルネが言っていた『強酸糸』だ。
触れればドレスも肌も瞬時に溶かされてしまう。
「『風の盾』!」
アルディスが左手をかざすと、前面に圧縮された風の壁が展開された。
強酸糸は風の壁に阻まれ、ジュウジュウと酸の煙を上げながら空中で散っていく。
「ふむ……確かに硬く、しつこい魔物だ。だが——」
アルディスの金色の瞳が、冷徹な光を増した。
「俺とエルネの穏やかな夜を邪魔した罪は、重いぞ」
その身体から、溢れ出す膨大な魔力。
夜会会場を覆っていた圧力を遥かに超える、本気の騎士の威圧感が、庭園全体を支配した。
アビス・スパイダーですら、本能的な恐怖を感じたのか、威嚇するようにカチカチと毒顎を鳴らし、後退りする。
館全体を揺るがす破滅の暴走。
最凶の魔獣を前に、エルネの類まれなる「鑑定眼」が、真の試練の時を迎えようとしていた。




