第9話 事件の結末は伝説の素材
「ひっ……ひぃぃぃぃっ! 助けて、助けてぇぇぇっ!」
激震と暴風が吹き荒れる館の庭園。
意識を取り戻した伯爵令嬢シエルカが、アビス・スパイダーの頭上にぶら下がったまま惨めな悲鳴を上げていた。
強酸を垂れ流す巨大な魔獣は、苛立ちを深めるように八本の脚で石畳を叩き割る。
その巨体から発せられる瘴気は、夜会に参加していた貴族たちをパニックの坩堝へと叩き落としていた。
「どうしてこんな魔物が現れたのだ!?」
「館の地下で何かあったのか!?」
悲鳴と怒号が飛び交う。
蜘蛛の糸に絡め取られていたシエルカは、ふと地上でアルディスに庇われながら佇むエルネの姿を目にとめた。
その瞬間、恐怖で縮み上がっていたシエルカの胸に、恐ろしいほどの醜悪な歪んだ悪意が再燃した。
自分がこんな無残な姿になり、恥を晒しているというのに。
あの平民女はアルディスの腕の中で安全に守られている。
それが許せなかった。
「あ……あの女よ! 皆様、騙されないでください!」
シエルカは金切り声を張り上げ、必死にエルネを指さした。
「あの平民女エルネが、手柄欲しさに館の地下へ忍び込み、封印の扉を破壊して魔物を解き放ったのですわ! 自分の珍しい鑑定眼をアピールして、アルディス様に褒められたい一心で、こんな大事件を引き起こしたのです!」
「な……なんですと!?」
「あの薬草収集家の女が……!?」
パニック状態の貴族たちは、シエルカの必死な叫び声にざわめき立った。
極限状態の人間は、わかりやすい犠牲者や犯人を提示されると、容易にそれを信じ込んでしまう。
「そうだ、あの女はギルドの泥まみれの平民! 高級な夜会に浮かれて狂ったに違いないわ!」
「なんて恐ろしい女だ! 今すぐ捕らえろ!」
シエルカはニヤリと惨めな笑みを浮かべた。
そうだ、これでいい。
この魔物騒ぎの全責任をあの女になすりつけ、処刑台へ送り込んでやる。
ギシャアアアアアッ!!!!
己の存在を無視して会話を続ける人間に腹を立てたのか、アビス・スパイダーが咆哮を上げ、巨大な毒顎を鳴らしてアルディスとエルネへ飛びかかろうとする。
だが、恐怖に震える周囲の貴族たちとは対照的に、エルネの様子がどこかおかしかった。
エルネは怯えるどころか、その大きな瞳をキラキラと輝かせ、アビス・スパイダーの巨体を食い入るように見つめていたのだ。
「あ……アルディス様! 見てください、あの糸!」
「ん? 糸……かい?」
「はい! あの口から出している酸の糸、表面の強酸成分をアルカリ性の薬草で中和して精製すると、最高級の防具やドレスになる『極上銀糸』になるみたい! 龍の炎すら通さないっていう、伝説の超激レア素材ですよ!」
「ほう……」
エルネの鑑定眼は、目の前の恐怖の魔物を、宝の山として認識していた。
「それに、あのお腹の先端についている黒い角! あれは『アビスの角秘石』! 砕いて煎じれば、どんな猛毒も一瞬で消し去る伝説の万能薬の材料になります! すごいです、本物なんて初めて見ました……!」
ウキウキと興奮を隠せない様子で、解説を始めるエルネ。
その愛くるしい表情と、素材に対する純粋な情熱を見たアルディスは、口元をふっと緩めた。
先ほどまでの冷徹な殺気は消え去り、そこにあるのは愛する少女の望みをすべて叶えてあげたいという、深く甘い溺愛の笑みだった。
「なるほど。君にとって、あの魔物は魅力的な『素材』というわけだね」
「はい! でも、傷つけすぎちゃうと素材の価値が下がってしまうのが難点で……」
「……凍るのなら問題ないかな?」
「え? もちろんです!」
アルディスは優しくエルネの頭を撫でると、一歩前へ出た。
「君が欲しいなら、すべて捧げよう」
アルディスが静かに右手を取り、細い指先をアビス・スパイダーへと向けた。
急速に指先に魔力が集まる。
「凍てつけ『絶対零度』」
一瞬だった。
呪文の詠唱すらほとんど省略された、規格外の絶対零度の氷結魔法。
アルディスの指先から放たれた青白い閃光が、アビス・スパイダーの巨体を包み込んだ。
ザザザザザザザッ……!!
咆哮を上げようとした魔物の口も、振り下ろされかけた巨脚も、噴出されかけていた糸も。
その一瞬ですべてが美しい透明な氷の中に閉じ込められた。
魔物が持っていた猛毒。
酸、素材の価値を傷つけることなく完全に「凍結・無力化」されたのだ。
「す……すごい……!」
エルネが歓声を上げる一方で、周囲の貴族たちは言葉を失い、ただ口ぐちに開けてその神業のような魔法の光景を見上げるばかりだった。
流石のアルディスも膝をつく。
「参ったな、ここまでの魔力消費は初めてだ」
「ひ……ふあぁぁぁぁっ!?」
魔物が瞬時に完璧に凍結されたことで、その頭上に囚われていたシエルカは、地面へとドスンと落下した。 氷の檻の中に閉じ込められかけた状態から間一髪で解放された。
「痛い……痛いわ……! 助けて……誰か……っ!」
シエルカは泥と破けたドレスに塗れながら呻いた。だが、彼女に差し伸べられる手は一つとしてなかった。
「誰か来てよ! あの平民女エルネが、封印の扉を破壊して魔物を解き放ったのですわ! こんな大事件を引き起こしたのです!」
当のエルネは、突然自分に向けられた冤罪の嵐に驚き、目を丸くしていた。
「え……? 私が封印を……? そんな、私はずっとアルディス様と裏庭でキノコを……」
「黙りなさい泥棒猫! 今更言い訳しても遅……」
シエルカが勝ち誇ったように叫び続けようとした、その瞬間だった。
ゾクッ……!
世界全体の時が止まったかのような、絶対零度の威圧感が場を支配した。
「——黙れ、愚か者が」
地獄の底から響くような、静かで冷徹な声。
アルディスが、ゆっくりと歩み出た。
彼が放つ圧倒的な殺気と魔圧の前に、周りで騒ぎ立てていた貴族たちは一瞬で呼吸を忘れて静まり返り、シエルカも恐怖で喉を詰まらせた。
アルディスは氷のように冷たい瞳で、頭上いるシエルカを見た。
「エルネは終始、私と一緒に裏庭にいた。彼女が地下へ足を踏み入れる隙など一秒たりともない。……そして何より、お前のその腕に付着した封印の過剰反応による傷」
視線だけで指し示した。
「自分の身の程知らずな嫉妬心から地下へ忍び込み、愚かな真似をして封印を破壊したのは……お前だな、ラフィラ伯爵令嬢」
「ひっ……! あ、あわ……っ!?」
一秒で真実を見破られ、完全なる冷酷な威圧感で言い断たれたシエルカは、顔面を蒼白にしてガタガタと震え出した。
アルディスの絶対的な一言によって、真実は白日のもとに晒された。シエルカになすりつけられかけた濡れ衣は一瞬にして霧散し、人々の視線は「愚かな犯人」であるシエルカへの激しい怒りへと変わった。
「エルネ、鑑定してくれ。あれはどう見ても魔力の反発の傷だ。騎士団ではよく見る」
「はい。その通りです」
シエルカは、顔面を蒼白にしてガタガタと震え逃げ出そうにも動けなかった。
「ラフィラ伯爵令嬢……! あなたという人は何ということをしてくれたのだ!」
館の主人であるヨークが、激怒した顔で叫ぶ。
ヨーク夫人が警衛兵を引き連れて歩み寄ってきた。
「国家機密の館の地下封印を意図的に破壊し、最凶の魔物を解き放って夜会を崩壊させ、参加者の命を危険に晒した罪……到底許されるものではない! 即座に拘束し、王都の地下牢へ連行せよ!」
ヨークが責任者として指示を出した。
この場の誰もそれに異論はなかった。
ただ一人以外は。
「な……なんですって!? 私は伯爵家の令嬢ですのよ!? たかが平民の女を罰しようとしただけで、なぜ私が……きゃああっ!」
警衛兵たちによって乱暴に両腕を拘束されるシエルカ。
さらにその時、彼女の体に決定的な異変が襲いかかった。
「熱い……! 体が、体が熱い……っ!?」
エルネが最初に警告していた通りだった。
彼女が自慢していた『粗悪な毒入り香水』が、魔力を失って抵抗力の落ちた彼女の皮膚へと浸透。
「嫌……嫌あぁぁぁぁっ! 私のお肌が……私の顔がぁぁぁっ!」
シエルカの顔や首元、腕全体に、見るも無残な紫色の劇しい発疹と腫れ物が急速に広がり始めた。
美しいドレスは泥と酸でボロボロになり、高慢だった顔は毒と発疹で見る影もなく崩れ去る。
自慢していた宝石と香水、そして己の浅はかな悪意によって、シエルカは完全に自滅したのだ。
「見苦しい。早く連れていけ」
ヨークの冷ややかな命により、シエルカは醜い悲鳴を上げながら、無残な姿で連行されていった。自業自得の末路であった。
一方、そんな大騒ぎと自滅劇にはもう誰も興味を示していなかった。
「アルディス様! 見てください、この氷漬けの状態なら、糸も角も完璧な状態で採取できます!」
エルネはすでに凍りついたアビス・スパイダーの足元で、ウキウキと目を輝かせていた。
「ふふ、良かったね、エルネ。怪我をしないように」
「はい! お願いしますアルディス様!」
意図的にアルディスがそちらに連れていき、シエルカの姿を隠していた。
見えたら庇うのがわかっていたのだ。
恐ろしい魔物が一瞬で「超レア素材の宝庫」へと変わり、エルネは楽しそうに解体作業を始めるのだった。
静けさを取り戻した館の庭園で、エルネの素材採取が無事に終了した。
「はいっ! 極上銀糸も、アビスの角秘石も、こんなにたくさん採取できました! これがあれば、新しい防具も万能薬も作れます!」
大きな採取袋を大切そうに抱え、エルネは満面の笑みをアルディスに向けた。
夜露と氷の結晶に照らされた彼女の笑顔は、どんな宝石よりも美しく輝いていた。
アルディスはそんなエルネを慈愛に満ちた目で見つめると、静かに歩み寄った。
「満足かい、エルネ?」
「はい! とっても! アルディス様のおかげです、ありがとうございます!」
「なら良かった。……だが、少し頑張りすぎて疲れただろう?」
「え? いえ、そんなことは……あっ」
言いかけたエルネの身体が、ふわりと宙に浮いた。
アルディスが躊躇うことなくエルネの腰と膝裏に手を回し、軽々と「お姫様抱っこ」で持ち上げたのだ。
「あ……アルディス様!? な、なにを……っ!」
急なことに驚いて、エルネは抱えられたままパニックになり、アルディスの首元にしがみついた。
アルディスはエルネを腕の中で愛おしそうに抱き締め直すと、彼女の耳元へとそっと顔を近づけ、甘く低い声で囁いた。
「今日は助かったよ」
「〜〜〜っ!?」
耳元に吹きかけられた温かい吐息と、あまりにも甘い言葉に、エルネの顔は一瞬で耳まで真っ赤に染まった。
胸の鼓動が早鐘のように打ち鳴り、アルディスの顔を見上げることすらできない。
「アルディス様っ……」
「ふふ、可愛いな」
辺りはもう深夜の闇。
片づけをしていた者たちも、調査を受けていた貴族たちもみな帰った。
作業に夢中なエルネと、それを見ていたいアルディス以外はいなくなっていた。
アルディスは嬉しそうに目を細めると、赤くなるエルネをしっかりと腕に抱いた。
月明かりが照らす半壊してしまった静かな館へと向かって歩き出した。
「今日は別館の離れを皆に貸してくれるそうだ。ゆっくり休もう」
「そうなんですね! よかった」
あたたかで甘い二人だけの時間が過ごせたアルディスは満足そうに笑っていた。




