第10話 泣き虫騎士団長
「……私、アルディス様のことが……」
自室、月明かりが差し込む窓辺で、エルネは自分の胸にそっと手を当てていた。
お姫様抱っこ。
耳元で囁かれた甘い声。
そしてこれまで向けられていた甘やかな眼差し。
それらすべてが頭の中で渦を巻き、彼女の心臓を壊れそうなほど激しく打ち鳴らしていた。
ただの「命の恩人」と「恩返しをしてくれる大切な騎士様」の関係ではない。
自分がアルディスに向ける感情は、ただの敬愛や感謝ではなく、一人の男性に対する「恋心」なのだと、エルネは遅まきながら自覚してしまったのだ。
しかし、自覚した瞬間に押し寄せてきたのは、耐えがたいほどの恐れと罪悪感だった。
(ダメよ、私なんかが……。アルディス様はこの国の騎士団長様で……セシリア姫様や、身分の高いお嬢様方こそがふさわしいお方なのに)
自分のような平民の薬草収集家が、そんな不躾な感情を抱いていいはずがない。
もしこの気持ちが知られたら、みんなを困らせてしまう。迷惑をかけてしまう。
「……少し、距離を置かなくちゃ」
それが、エルネの優しすぎる頭が出した、最悪の答えだった。
翌朝から、エルネの極端な回避行動が始まった。
ギルドの食堂の席でアルディスが隣に座ろうとすると、「あ、私、厨房でお手伝いがありますから!」とスープの皿を持ったまま一目散に駆け去る。
廊下で向かいからアルディスが歩いてくると、曲がり角を見つけるやいなや、脱兎のごとく逆方向へ走り去る。
ハタキを持って掃除を手伝おうと近づいてくるアルディスに対し、「私の仕事ですから! アルディス様はお手を煩わせないでください!」と丁寧すぎる一礼。
そのまま部屋のドアをバタンと閉めてカギをかけてしまう。
会話すら交わさない。
目も合わせない。
アルディスが差し伸べる手から、エルネは滑り落ちるように離れていった。
最初のうちは恥ずかしがっているのだろうと納得させていたアルディスだった。
しかし二日、三日と徹底的に避けられ続けるうちに、彼の完璧だった精神は限界を迎えていた。
「……なぜだ」
ギルドの応接室。
アルディスは椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆っていた。
これまでどんな強大な魔獣にも、どんな凄惨な戦場にも動じなかった冷酷な騎士団長の肩が、小刻みに震えている。
「俺が……何か失礼なことをしたのだろうか。あの夜、急にお姫様抱っこなどしたから、嫌われてしまったのか……? 気持ち悪いと、思われたのだろうか……」
考えれば考えるほど、思考は暗い底へと沈んでいく。
エルネに嫌われた。
エルネに拒絶された。
その事実だけで、アルディスにとって世界は色を失い、呼吸することすら苦しくなった。
「ガルド……俺は、どうすればいい……?」
冷や汗を流しながら控えていたギルドマスターのガルドへ、アルディスは掠れた声で問いかけた。
ガルドは目の前の光景が信じられなかった。
国中の誰もが恐れる最強の男が、まるで世界が終わったかのような絶望に打ちひしがれている。
「あー……アルディス。落ち着け。エルネの奴も、別に嫌いで避けてるわけじゃないと思うぞ? 見ろよ、お前と目が合うたびに顔を真っ赤にして逃げ出してるだろ。嫌悪感って顔じゃねぇよ」
「……顔が赤いのは、怒りと拒絶の熱かもしれないだろう……!」
「そんなワケねぇだろ重症か!!」
ガルドのツッコミも、今のアルディスには届かない。
「エルネに嫌われるくらいなら……いっそ、あの魔物の毒で死んでいればよかった……」
「縁起でもねぇこと言うな! 頼むからしっかりしろ騎士団長!!」
ガルドの胃がギリギリと痛み出すのと同時に、扉の外からノックが聞こえた。
扉の隙間からそっと顔を出したのは、お茶を運んできたエルネだった。
アルディスがこの部屋にいると知りつつも、仕事として来ざるを得なかったのだ。
「お、お茶をお持ちし……あっ」
目が合った瞬間、エルネはまたしても「逃げなきゃ!」と本能的に身体を強張らせ、トレーを持ったまま後ろへ下がろうとした。
その瞬間——。
ガタタァンっ!!
「エルネっ……!!」
椅子を倒す勢いで立ち上がったアルディスが、弾かれたようにエルネの元へ駆け寄った。
エルネは驚いて足を止めたが、アルディスの顔を見た瞬間、言葉を失った。
そこにいたのは、威風堂々とした騎士団長の姿ではなかった。
目元を赤くし、今にも消えてしまいそうなほど蒼白な顔をした、傷ついた一人の男だった。
「アルディス……様……?」
「逃げないでくれ……頼むから、俺を見捨てないでくれ……っ!」
そう叫んだ直後、アルディスはその場に膝をつき、エルネ腕を掴んだまま、ボロボロと大粒の涙をこぼして泣き崩れた。
「あ……アルディス様!?」
「嫌だ……君に嫌われるくらいなら、死んだ方がマシだ……! 俺が何か気に障ることをしたなら、何でも謝る! だからお願いだ、俺を拒絶しないでくれ……」
ボロボロと溢れ出る涙が、床を濡らしていく。
あの最強の男が、静かに泣いているのだ。
ガルドは「マジかよ……」と絶句して目を丸くし、エルネはパニックに陥った。
「ち、違います! 違いますアルディス様! 嫌いになったなんて、そんなわけありません!!」
エルネは慌ててその場にしゃがみ込み、泣きじゃくるアルディスの両手を強く握りしめた。
「じゃあ……なぜ避けるんだ……? 目も合わせてくれないし、近くにも寄ってきてくれない……」
アルディスは子どものように鼻を鳴らした。
涙で濡れた瞳で、縋るようにエルネを見上げた。
「それは……その……っ」
エルネは顔を真っ赤にし、ぎゅっと目を瞑って、胸の内を叫ぶように明かした。
「私……アルディス様のことが……す、好きだって……気づいてしまったからです……!」
「……え?」
アルディスの泣き声がぴたりと止まった。
「私みたいな平民が、アルディス様をそんな目で見ちゃいけないって……好きになっちゃいけないって思ったら、緊張して、顔も見られなくなっちゃって……! 嫌いになったんじゃないです! むしろ、好きすぎてどうしていいか分からなくなったんです……!」
恥ずかしさのあまり、涙目になりながら真っ赤な顔で必死に訴えるエルネ。
静まり返る応接室。
「……す……き……?」
アルディスは呆然と呟き、エルネの言葉を脳内で反芻した。
嫌われたのではない。
むしろ、自分がどれほど望んでも手に入らないと思っていた、エルネからの「恋心」を告白されたのだと理解した瞬間——。
アルディスはポカンと口を開けたまま、再びボロボロと、今度は嬉しさのあまり涙を溢れさせ始めた。
「あ……アルディス様!? まだ泣いて……っ!?」
「う……あ……良かっ……た……っ! エルネが……俺を、好きで……いてくれた……っ!!」
「もう! 泣き虫すぎますアルディス様ぁっ!」
情けなく号泣しながらエルネをがっしりと抱きしめるアルディスと、照れと呆れで真っ赤になりながら彼の背中を優しく撫でるエルネ。
部屋の隅で一部始終を見ていたガルドは、深く、深くため息をついた。
「……なぁ。泣き崩れてプロポーズすんのは勝手だが、俺の心労と胃が……。俺の部屋返してくれねぇか……?」
ギルドの誰にも邪魔されない部屋で、ガルドに見守られながら。
泣き虫な最強騎士と困った雑用係の、甘く少し騒がしい恋が、本格的に走り出した瞬間だった。




