第7章 泉
山道を外れ、細い川に沿って、岩場の斜面を登った。
上流から、白と、紫の花が川を滑っていくのを、ぼんやりとした目で見送った。
登り切った先にある、小さな泉。
日は傾き、雲に金色の縁を残したまま沈んでいく。
東の空には、欠けた月が青白く浮かんでいた。
泉のまわりには蛍が飛び、
花は月明かりを受けて、淡く光っている。
静かだった。
血の匂いも、温い風も、ここには届かない。
森の空気は澄み切っていて、胸の奥まで冷たく落ちてくる。
ディアンは立ち止まり、深く息を吸った。
隙間だらけになった心に、
静かな空気が、ゆっくりと流れ込んでくる。
誰も、いない。
ただ、ただ、
ディアンが一人、
いるだけ。
「……」
それを認識した途端、膝から力が抜けるような脱力を感じた。
立ち止まる。
――ひらり。
何かが光った。
つられるように目を向けると、
泉の方から、微かな音が響いた。
――ちゃぷ……。
淡い金髪を水に張り付かせた頭が、水面を割って現れた。
濡れた髪は夕日に照らされ、異様なほど鮮やかに光っている。
その周りに――妖精。
ひらり、ひらりと淡く輝き、鱗粉を落としていた。
相手は背を向けている。
大きく息を吸い、そして、また水の中に入った。
潜る、というより――
沈み込むような動きだった。
泉のそばには、きれいに畳まれた白い服。
もう見たくないと思った色。
聖騎士のものだ。
ディアンは、ぼんやりとした頭が、一つの名を浮かび上がらせた。
――クレディス。
ディアンの膝に、力が入る。
近づこうと思った。
だが近くに、土のついたスコップが目に入った。
足が、止まった。
――あいつが、殺した。
仲間を埋めたのも、あいつ。
――でも、どうして……?
彼は、何度も深く沈む。
浮上しては、また潜る。
喉の奥が、ひくりと鳴った。
疲労と、困惑と、憎しみと――様々な感情が一気に押し寄せる。
何も分からない。
理解なんて、できるはずがない。
それでも、ディアンの心に、一つの答えが浮かんだ。
(――あいつは、人間だ)
人間なら、殺すことができる。
ディアンが深く思考に落ちている間に、
泉から上がる音と、衣擦れの音が響き、収まった。
腰を下ろして、放心しているように見える。
もう、妖精はどこかに消えていた。
ディアンは、砂利と一緒に、掌に収まる石を隠し持つ。
目に光を燈らせ、あえて足音を響かせて歩いた。
聖騎士は、はっとした表情で振り返った。
「――クレディス、だよな」
「……なぜ私の名を?」
クレディスは目の下に隈をつくりながらも、薄紫色の瞳を鋭くディアンに向けた。
「墓、なんで作った。だったら殺すなよ」
ディアンは怒ろうとした。
だが、感情が間に合わず、ただ淡々と口にしただけだった。
クレディスは、何かを言いかけるように唇を動かしたが、言葉を殺すようにぐっと唇を噛んだ。
隈の濃い目が、苦しげに伏せられる。
長い、沈黙が落ちた。
ディアンは草を踏んだ。
「なんで殺す必要があったんだよ……」
「盗賊だからです」
「違うはずだ。これまでいろんな盗賊団がお前らに襲われてたけど、その場で殺すのは頭と数名の手下だけだったじゃねぇか。お前らだって知ってんだろ? つい一週間前まではただの平民だった奴もいたんだ。なんで俺を生かして、あいつらを殺したんだよ!」
クレディスは答えない。
それとは関係なく、ディアンの口が止まらなかった。
「なんで殺したんだ! あいつらはそんな罪を犯したのか、どんな罪だよ、なぁ!」
ディアンは叫びながらクレディスに突進した。
砂利と石を投げつける。
クレディスが目を庇うと同時に、ディアンは飛びこむようにして距離を縮めた。
手が、クレディスの剣に伸びる――が。
ゾワリ――ッ
ディアンの全身を震わせる悪寒が、電撃のように走った。
身を反らして飛び退く。
ヒュ、と空気を斬る音と共に、青白い閃光が走り、
先ほどまで足があった場所の草が薙ぎ払われた。
背の低い葉や花がはらはらと舞い散る。
ディアンは詰めていた息を吐きだし、舌打ちした。
無表情のクレディスは剣先をディアンに向ける。
「案外、落ち着いてるんですね」
「ああ」
――落ち着いている……?
「きっと、……心が麻痺してんだ」
ディアンは、ただ反射で口を動かした。
自分が何をしにアジトに戻ったのかも分からないし、
心と呼べる部分は、痛みを通り越して、
巨大な風穴に呑み込まれたみたいに、何も残っていなかった。
「なぜ武器を持たないのですか?」
「盗めばいいだけだろ」
――それに、いつも丸腰じゃない。
狩りだって――……。
「……あれ?」
やり方を、思い出せない。
記憶を辿ろうと、頭に手を置いた。
だが。
――空白。
「なんで……? なんで思い出せないんだ?」
ディアンの視線が焦点を失い、せわしなく動く。
膝を折り、両手で胸を押さえた。
「……消えていくみたいだ……。みんなが、いなくなるみたいだ……」
胸を抜ける風は、十四年分の記憶だった。
詰め込まれていたものが、音もなく流れ出していく。
クレディスは剣を鞘に収めた。
だが、目の前のディアンを前に、
どう対応すればいいのか分からない様子だった。
草を踏む音が少ししただけでディアンは顔をあげ、涙の溜まった瞳でクレディスを見上げる。今は誰でもいいから傍にいてほしい。
クレディスに立ち去ってほしくなかった。
「まっ……」
「どこにも行きませんよ。もう夜ですし、あなたと違って私は森に慣れていませんから」
疲労の滲んだ声色は、もう少ししたら眠ってしまいそうだった。
「どうしてあんなことしたんだ……墓なんて」
「言い訳にしかなりません。眠らせてください」
「駄目に決まってるだろ? 俺が納得するまで寝るな」
クレディスの唇が紫に変色していた。
日が落ちて、辺りが薄暗くなり始める。
「……分かりました、話しますが、聞きたくなかったらストップをかけてくださいね」
クレディスは木にもたれ、剣を鞘ごと抜き、手にした。
「今回の命令は、殲滅……。私は、何も疑いもせずそれを実行しました」
クレディスはゆっくりと話した。
「先日の交渉のときに、王冠と犯人を見つけ出せていれば……」
クレディスは右手で額を抑え、わずかにふらついた。
眠気――いや、その時の情景を思い出している――?
「あなたたちのかしらを斬る前に――誰かが、王冠を、差し出してきました」
ディアンは息を詰めた。
見てもいない光景が――頭に浮かぶ。
(――ゾラン……)
「その人は、王冠と、引き換えに……団員の、命を、見逃すように、交渉してきました」
「……」
ゾランなら、やりそうだ。
だけど――
次の言葉が予想でき、ディアンは反射的に身構えた。
「私は、その人を斬りました」
ガンッと頭を殴られたように視界が揺れる。
分かっていたことだったのに。
それでも、よく理解ができなかった。
「――で、でもよ……」
ディアンの声が掠れる。
「親父たち、強かった、だろ? 当然……お前らも死んだんだよな? 何人か」
「……」
クレディスは、微動だにしなかった。
ディアンは、続けようと口を開けかけた時、クレディスの声が被さった。
「かしらや幹部は、すべて私が請け負いました」
「……え」
「こちら側に、死者はありません」
ディアンが言葉を失い、呆然と立ちっぱなしになる。
ほとんど真っ暗になった泉は、クレディスの姿ですら輪郭を滲ませる。
暗闇が動き、クレディスが草地に寝ころんだ。
「あなたの質問は何でしたっけ。……ああ、なぜ私があの方たちを埋葬したか、でしたね。言い訳がましくなりますが……罪滅ぼし、でしょうか」
罪滅ぼし。
予想していた言葉が、空白だったディアンを苛立たせた。
「……聖騎士様はいいよな。人を殺しても罪が帳消しになるんだから」
「……やめてください。私が犯した罪は、それ相応の結果となって返ってきますから」
「例えば?」
「そんなもの分かりま、せん」
クレディスは不自然な場所で言葉を区切った。
泉の周りに、ひとつ、またひとつと淡い光が浮かぶ。
蛍だ。
クレディスの意識が逸れた。
ディアンはそれを視界の端で捉えたまま、静かに一歩踏み出す。
闇に慣れた目に、仄かな光に縁取られた剣が映った。
次の瞬間、地を蹴っていた。
闇に紛れて、クレディスの剣を奪う。
馬乗りになった。
ディアンは鞘から剣を抜き、一気に振り下ろす。
――ザンッ!
本気で殺すつもりだった。
が、
残念ながらクレディスの反応が早く、剣先は耳元の地面に刺さった。
「例えば、盗賊団最年少の生き残りの仇討ちにあう、とか?」
「――できたら、よかったですね」
クレディスは身を起こすと同時に、ディアンの右腕を掴み、簡単にねじり上げた。
右腕に電気が走ったような鋭い痺れ。
ディアンは、左手で地に埋まった剣を抜くと、クレディスの胸をめがけて振り下ろした。
しかしディアンが切り裂いたものは人の皮膚ではなく、ただの布数枚。
ディアンの左手首が大きな手に掴まれており、同じようにして捻じられる。
指の感覚が一気に遠のいた。
剣が滑り落ちる。
右腕と左手首の痺れが、ディアンとクレディスの力の差を証明していた。
剣を奪って一発で仕留められなかった時点で、ディアンに勝ち目はなかった。
それでもディアンはクレディスを睨み続けた。
クレディスが馬乗りになる。
「私が憎いですか?」
彼の長い髪が、一房垂れ下がった。
月に照らされ、淡く輝く。
ディアンは、一瞬息を詰まらせて、
ふっと全身の力を抜いた。
「……そんなんでもねぇ。お前みたいな強いやつに負けるんなら、それでいい」
自分がいま、どんな表情をしているのか分からなかった。泣きそうで、笑っていて、困惑していて、悔しい。口は笑いの形で開いているが、目や眉や頬は恐らく別々な表情を作っている。
ディアンの返答に、クレディスは狼狽えた。
「何を、言っているのですか?」
「おれ、友達とか、誰もいないからさ……。誰もいなくなって、さみしいんだ。
俺も、みんなのところに行きてぇ……」
ようやく本心を捉えることができた。
――殺してもらえる。
望んでいた。
クレディスを見つけたときから、ずっと。
「――なぁ、これはダメな願いなのか? お前の罪滅ぼしの一環にならないのか?」
ディアンは曖昧な表情のまま呟いたが、クレディスを見つめる金の瞳の涙を抑えることができなかった。
「……すみません。それは、できません」
ディアンの目が、見開かれる。
何を言われたのか。
頭では理解したが、心が――追い付かない。
殺せもしない。
殺してもくれない。
「なんでだよ……」
――生きるなんて、苦しいだけ、なのに……。
「今さら人殺しをためらったって、何にもならねぇだろ……!」
声が震えた。
クレディスの目は、揺らがなかった。
唯一の希望が――絶たれる。
「罪を重ねる罪滅ぼしなんて、私はごめんです」
冷たく言い放ったクレディスは、そっとディアンの上から退くと、ディアンのすぐ横に腰を降ろした。
「あなたは、希望なのです」
「希望ってなんだよ」
低い声が喉から漏れた。
「街の人も言ってた。仲間からも聞いたことがある。目の色がおかしいから、そんなこと言われるんだよな」
「嬉しくないのですか?」
「当たり前だ。俺にどんな希望や幸福があるってんだ」
幸福の盗賊団。父親の目がそれだったため、勝手につけられた呼び名。
父親の目は好きだった。同じ色でも、虎のように危険な光を放ち、威厳があった。
だが、ディアンはそれを受け継ぎたくなかった。
「私はあなたとは逆、皆から忌み嫌われる少年を知っています」
「それがどうした? だから俺は幸せだと感じるべきです、とか言うのか?」
互いの顔が見えない暗闇の中で、特に知らない人と話すのは、案外気楽なものだった。
クレディスを赦すことはできない。
けど今は、隣にいる人は誰でもよかった。
「その子はただ髪の色素が生まれつき抜けてしまっただけです。他の人たちと何も変わりません。だからあなたも、何も幸福なことはありません。生まれつき盗賊なだけです」
クレディスは真面目な口調で言った。
「あなたたちに共通するのは友達がいないというところです。喧嘩して、ぜひ友達になってください」
友達……。
ディアンは、それが何なのか、よくわからないままだった。
頭が、ぼんやりとする。
ディアンは、頭に浮かんだことを何も考えずに口にした。
「お前の友達はパルチェスだよな?」
「あの人はただの後輩です。ラウジとは幼馴染ですが」
「誰だそれ?」
「あなたに剣を渡した人です」
ふーん。
どうでもいい。
地面に寝そべったままのディアンは、クレディスの白いシルエットをぼんやりとした目で眺めた。
クレディスがあくびをかみ殺す。
寝たふりをしたら、クレディスもすぐ寝そうだ。
ディアンはクレディスに背を向けるように寝返りをうった。しばらくじっとしていると、注意深くクレディスも横になるのがわかった。
ふり、のつもりだったのに、ディアンの意識がだんだんぼやけていく。
もう、戻ってこない仲間の顔が浮かぶ。そこには親父もいたが、何も言わず、不機嫌そうに唇をへの字にまげているだけだった。
――出ていけ。
それが、最後の言葉になるなんて、思ってなかったよ、親父。
湿った土や花の匂いを嗅ぎながら、
ディアンの意識は、真っ暗なまどろみの中に溶けていった。




