第27章 並んで立つ 前半
山道を外れ、ロレンの手を引きながら泉を目指す。
ディアンは時折、吐き気に似た気持ち悪さを感じていた。
何度目かのめまいを起こす。
ディアンは傍の木に手を付き、額を抑えてそれに耐えた。
――……。
「……?」
今、何かが聞こえた気がする。
ロレンかと思ったが、暗い表情のまま立っているだけで、ディアンが手を引かないと進まない状態だ。
「――なぜですか?」
「ん……?」
ロレンが小さな声で何かを聞いた。
「なぜ、僕を助けるんですか? 君だけ生きれば、それでよかったのに」
ロレンは目を伏せたまま、その場に座った。
ディアンは、答えられなかった。
(どうしてだ……?)
――食うため。
「――っ」
ディアンは目を見開き頭を押さえた。
何を、思った?
いや、これは……悪魔。
――食え。
「……いやだ」
――旨そうだ。
「やめろよ……!」
――食いやすくしてやる。
悪魔の声が、にやと笑いを帯びたかと思うと、右手に強烈な痛みが走った。
「うあ――っ!」
「ディアン君?」
ロレンの目に光が入る。
不安げな眉。
ディアンは、歯を噛みしめて痛みに耐えた。
右の肘から先が、悪魔のような醜い形状になった。
鋭い爪も、あれと同じ。
ロレンが後ずさった。
「ロレン……逃げろ」
ディアンの鼻に、甘い香りが漂う。
いや、香りだけじゃない。
背後――クレディスのいる方角から、
剣と固いものが合わさる音。
獣のような息遣い。
踏み切る音。
一瞬の呼吸――
全てが鮮明に聞こえ出す。
ディアンは意識を無理やりクレディスの方へ向けた。
戦っている。
クレディスの剣が届いているのが分かる。
それでも――致命傷になっていない。
それに。
ロレンの近くに、いてはいけない。
頭がくらくらして、よだれが垂れそうになった。
だから。
(――行かないと)
周りに、他の悪魔がいないことが分かった。
いや、ここに一匹……いるか。
――食え。
食うわけないだろ。
……甘い匂いだ。
でも――メロンパンの方が、ずっと甘い匂いだった。
「ロレン、ごめん……」
「え……?」
「お前を生かした理由……。
俺が……一人になりたくなかっただけ、だった」
「……」
ディアンは、視線を逸らし、左手で頬を掻いた。
「だけどもう、会うことは……ない。
生きるか死ぬか、もう邪魔はしねぇよ」
ディアンは、逃げるようにその場を去った。
走る。
走る。
走る。
甘い匂いが遠ざかる。
身体が軽かった。
――引き返して、食いに行け。
「うるせえな!」
ディアンは、悪魔になった右手を木に叩きつけた。
爪が当たった木が折れ、ぱきぱきと音を立てながらゆっくり倒れる。
――こりゃあいい。
濁った思考が声として頭に響いた。
それが、自分のものなのか、よく分からなかった。
……関係ない。
戦闘してやる。
加勢しに行くんじゃない。
クレディスが届かない一歩を、
この力で、奪いに行くんだ。
*
クレディスは、一瞬鋭く踏み込むと、悪魔化したグーリッジの首元に剣を滑り込ませた。
――硬い。
火花が散る。
首は半分以上切られても、その瞬間に張り付き、戻る。
次の瞬間には四肢を切り落とし、だるま状態にした。
深く息を吐く。
悪魔の尾がクレディスの背中を突き刺し――
振り返らず薙いだ剣先が、地面もろとも尾を細切れにする。
クレディスが再び向き直ったころには、切断した四肢が元通りになっていた。
悪魔が動く。
グーリッジの剣、体術、勘――
すべてに悪魔の凶暴な力が合わさる。
悪魔が突く。蹴る。切り裂く。
すべていなし、避け、距離を測る。
無傷でいられるほど、甘い相手ではなかった。
クレディスは一瞬息を吸う。
次の瞬間には、悪魔の心臓を一突きし――
カチン――ッ
背中側まで貫こうとした剣先に、硬い何かが当たった手ごたえを感じた。
一歩、届いていない。
剣を抜き、距離を――
ぐぐ、
「――っ!」
――抜けない。
にや。
悪魔の顔が、歪んだ。
クレディスの身体を、両手で合わせるように掴む――。
剣を放したクレディスは、間一髪で避け、距離をとった。
呼吸が荒くなる。
――危なかった。
掴まれていたら、なすすべなく殺されていた。
だが、剣は手元にない。
――どうする。
その時、木々の隙間から何かが勢いよく飛び出し、悪魔化したグーリッジの喉を深く切り裂いた。
ディアンは、悪魔の腹に刺さっていた剣を引き抜き、
もう一度跳躍して、裂く――。
しかし悪魔の尾が邪魔をして狙いは肩に逸れてしまった。
奇襲は大失敗に終わった。
仕方なく距離をとる。
クレディスの横に着地した。
「――ん」
「え……?」
一瞬の沈黙のあと、ディアンは剣を差し出した。
「獲ってきてやった」
「――いい仕事しますね」
にやりと笑ったディアンから、剣を受け取る。
クレディスは、すぐに異変に気が付いた。
「――その、右手は……」
悪魔のような黒い皮膚に爪。
ディアンは、視線を悪魔に向けた。
「……まだ、ああならねぇよ」
「……」
首の再生が終わったグーリッジは、耳を劈くような咆哮をした。
よだれを吹き出し、両肩の後ろから、角のような鋭い突起が生える。
理性が完全に失われたような変異。
傷を再生していくたびに、グーリッジは死んでいったようだった。
悪魔が、
一瞬姿を消した。
ディアンは咄嗟に右手で体をガードした。
刹那。
悪魔が放った突きが、鋭い爪を一点に集中させて、ディアンに襲い掛かった。
全身が粉々になるほどの強い衝撃が襲い、身体が吹き飛ばされる。
木に背中を強く打ち付け、息が吐き出される。
その直後、悪魔が距離を詰め――回し蹴りで木々をなぎ倒す。
間一髪で避けたディアンの進行方向に、剣で切るような軌道で鋭い爪が走り――
ディアンは心臓を縮めながら、爪と爪の間に避けた。
クレディスが、中指を切断してくれたおかげだった。
荒く息を吐きながら距離をとる。
太ももや肩にできた傷が、再生されていった。
細胞が置き換わる。
本能が強くなる。
グーリッジという理性を失った悪魔のように、ディアンも、本能のリミッターが外れていくのが分かった。
クレディスもディアンに並び、剣を構えなおす。
「……厄介ですね」
「ああ」
ディアンは悪魔を見据えながら言った。
「もういっそ、俺ごと斬ってくれないか?」
動きを止めてやるから。
「やめてください。却下です」
クレディスは、一番簡単な方法を斬り捨てた。
ディアンが舌打ちをする。
「私が、もう一度心臓を突きます」
「意味あんのか?」
「あの奥に、何かがありました」
ディアンは、ふうんと軽く流した。
「――じゃ、俺は首かな」
二人は同時に駆け出した。
ディアンがグーリッジの首に絡みつくように乗る。
首に爪を突き立てて――切り裂く。
同時にクレディスが心臓を突きさした。
――よし。
ディアンは悪魔の肩を蹴って、首元を離れた。
直後、ブン、と風を切り裂いて、グーリッジの爪が空ぶる。
あの爪で裂かれたら――と思うと、全身に寒気が走った。
でも――。
「は――?」
クレディスはその場を離れずに、
まだ、心臓に剣を突き立てていた。
なんで、あいつ。
クレディスは、一歩深く踏み込んだ。
パキ……ッ!
その切っ先が、何かを壊した音が響く。
「……っ!」
同時に、クレディスのわき腹から背中が、深く切り裂かれた。
悪魔の咆哮で、クレディスのうめき声が掻き消された。
ディアンは、血を吐いたクレディスを横から掻っ攫うように押し、
悪魔の爪の二撃、三撃から距離を取った。
「……剣を、ください……」
地面に伏せさせたクレディスが、ディアンを押し退けるようにして起き上がり、
第一声でそう言った。
「バカ。もう動けねぇだろ……!」
避けさせてやったのに。
「……いえ、自分で取りに行きます……」
「は……?」
クレディスは立ち上がった。
胸に剣が刺さったままの悪魔の首から、青紫の血が流れ出ている。
――傷が、再生されていない?
ディアンの耳に、小さなつぶやきが聞こえた。
――詰みを消す……。
悪魔の爪が、ボロボロのクレディスに迫った。
クレディスがステップを踏むように身を投げる。
一瞬後に悪魔の腕が通過し、金髪の毛先が切れて舞った。
ほとんど意識がないはず。
これは、研ぎ澄まされた本能。
紙一重で避けるその様が、あまりに美しくて――
ディアンは、目を奪われた。
クレディスの足は止まらない。舞を踊るかのように避ける。
ひらり、木の葉を掴むのに失敗する悪魔が、大振りの動きをした。
ディアンが悪魔の首に飛びつく。
そして力任せに捩じった。
――ゴキリ。
嫌な音と共に、悪魔は体勢を崩した。
クレディスが剣を引き抜き、剣を振るった――だが。
――ガキンッ!
その剣は、首の途中で止まった。
クレディスの身体がよろけ、口から血の塊を吐き出す。
意識の混濁。
それでも、目だけはディアンを離さなかった。
「……ディ、ア……――」
剣を預けるように、手を離す。
ディアンは、左手で剣を握った。
(――分かってるよ)
クレディスほど上手く斬ることなんて、できないけれど――。
手に力を込めた。
力任せに、押し斬る。
悪魔と目が合った。
その赤い眼光に映っているのは、
愉悦に口元を歪ませ、金の瞳に縦長の瞳孔を開いた、
――悪魔そのものだった。
ゴトン。
*
動けないまま、時間だけが過ぎていった。
風に交じり、野生動物の動く音が聞こえる。
悪魔は、沈黙した。
グーリッジは、死んだ。
復讐は、果たすことができた。
いや――まだ、残っている。
ディアンは、血を流して倒れているクレディスに近づいた。
二番隊小隊長クレディス。
一人で第三集落の幹部を壊滅させた凄腕の聖騎士。
罪を背負い、憂えながら罪を重ねる人。
――親父を殺した人。
クレディスの顔は、青白かった。
何度か頬を叩いても、反応はない。
背中からわき腹にかけて、深い傷ができている。
「……なに、死にそうな面してんだよ」
答えは返らない。
命が、静かに遠ざかっていく気配がした。
ディアンは、クレディスの頬にはりついた髪を撫でるようによけた。
その手が、震えていることに気づいて、息を呑む。
「……まって」
声が、かすれる。
「お願いだから……」
聖騎士クレディスは、正しさに縛られた、ただの剣だった。
だけど、同時にクレディスは、
誠実で、頑固で、単純で。
手が暖かい、人間だった。
――いつから、知った?
――いつから、そんなふうに思うようになった?
仇なのに。
憎みたいのに。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃに掻き乱される。
涙が、勝手に溢れてくる。
ディアンは、クレディスの服を掴んだ。
「死ぬなよ……」
絞り出すように。
「……なぁ」
理由なんて、分からない。
分かりたくもない。
「独りに、するな……」
声が風に溶けていく。
胸の奥から、別の声が聞こえた。
――死んで当然だろ?
冷たく、容赦なく。
――これが、コイツの報いだ。
囁いていたのは、
ディアン自身の形をした『悪魔』だった。
零れ落ちた涙が、
クレディスの頬を伝い、地面へ落ちる。
その場所から、小さな芽が、静かに顔を出した。
目端に映る小さな影。
「赤は――」
場違いなほど明るい声とともに、一匹の妖精が現れた。
小さな身体。透明な羽。
泣き腫らした視界の端で、光が弾く。
「赤は、愛」
それを合図にしたかのように、
空気がざわりと揺れた。
いつの間にか、周囲には妖精たちがいた。
「……黄色は希望」
「……青は冷静」
重なり合う声は、言葉としてはっきりしない。
ディアンは顔を上げた。
白い模様の入った妖精が、
すっと目の前まで近づいた。
黒曜石のような瞳が、じっとディアンを見つめる。
「――白は?」
「……え?」
急に問いかけられ、言葉に詰まった。
ポルルージュの花言葉。
白は――
「……白は……祈り」
こぼれ落ちるように、言った。
「――祈り」
その言葉を、妖精たちが繰り返す。
祈り。
祈り。
囁きはやがて、歌のように重なっていった。
やがて、空が白み始める。
夜明けの光を受けて、白い妖精が言った。
「祈ってみよ」
(……祈る……)
ディアンは組んだ手を胸に当てた。
――独りに、しないでください。
二匹の妖精が近づき、
左頬と、右頬に、それぞれ口づけを落とした。
――生か死か。
選び、示せ――。
そんな声が、聞こえた……気がした……――。




