第13章 聖杯
1
酒場に着くと、夜の営業が始まっていた。
裏口を開けると、がやがやした騒がしい音が鼓膜を揺らし、
酒と料理の匂いが鼻をくすぐる。
こっそりと、店内にある階段を登ろうと、足音を消す。
だが。
「――ディアン」
ぎく、と肩が跳ね上がり、思わず振り返った。
ラウジと目が合う。
「どこに行っていた?」
「別に……」
「着替えてこい」
ラウジはいつも通り淡々と言うと、ジョッキと皿を卓へ運んでいった。
カウンターの奥の厨房では、ラウジの父が豪快に大鍋を振っている背中が見える。
もう見慣れた光景。
……チッ。
ディアンは階段を駆け上がった。
やっぱ、あいつは面倒だ。
いつもいつも、勘が鋭すぎる。
(腹減った……)
朝から、まともなものを口にしていない。
店の匂いを嗅ぐまで、空腹なんて、感じなかったのに。
ディアンは、ズボンのポケットから、お菓子の袋を取り出した。
その時、階段を上がる足音と、ドアのノック音が聞こえた。
「ディアン、いいか?」
ラウジの声だ。
いったい何だよ。
ディアンは、ドアを開けた。
ラウジが持つトレーの上にスープカップが乗っていて、
香辛料の効いた香ばしい匂いが鼻を掠める。
「腹減ってるだろ」
「別に」
答えた瞬間に、腹がぐぅと主張した。
「う……」
こんなタイミングで鳴るなよ。
頬を緩ませたラウジが部屋の中央にあるデスクにスープカップを置いた。
「誰かと喧嘩でもしたのか?」
「は?」
「その花」
ラウジが指差した。
「――花が、なんだよ」
意味が分からない。
ラウジはそれ以上答えずに、部屋の外に出た。
「――じゃ、食ったら降りて、店を手伝え」
抑揚の薄い口調でそれだけ言うと、階段を下りて行った。
ディアンは木のスプーンでスープを飲む。
胃のあたりに広がった暖かさが、指先まで冷えていたことを思い出させた。
夜の営業が終わった。
ディアンは、疲れたと言って、早めに二階に上がった。
今夜、行ってみようと思う。
ラウジにバレなかったら、とっくに向かっていたのに。
――平民街の、引き渡し場所。
グーリッジがいつ動くのか分からないが、
じっとしていられなかった。
窓を開け、身を乗り出す。
隣の家屋の屋根を伝い、夜風に身をさらした。
2
ここだ。
平民街の外れ。
建物と建物の隙間に押し込まれるように、細い路地が伸びており、
ひび割れた石畳に、雨水と汚れが混じった水が溜まっていた。
頭上では、洗濯紐に吊るされた服が夜風に揺れ、湿った布の影が行き交う人間に落ちる。
酒場の裏口から流れてくる笑い声。
どこかで割れた瓶の音。
その奥。
さらに暗く沈んだ場所に、目的の建物があった。
「あっ」
目の端を掠める、白い制服。
ディアンは生ゴミの影に身を伏せ、顔を出した。
――やっぱりだ。
聖騎士が二人、扉をこじ開けようとしていた。
中にいるのは、杯を盗んだ連中か。
聖騎士に追い込まれて、立て籠もっているらしい。
ギラッ。
聖騎士の後ろから、別の影が音もなく近づく。
月明かりを受け、握られた刃が鈍く光った。
ディアンの喉がごくりと鳴る。
――乱闘になる。
でも、そのいざこざがあれば、紛れ込めるかもしれない。
ゴミの饐えた臭いに眉を寄せ、闇に紛れるように影を移した。
聖騎士らが刃物を合わせる甲高い音が下から聞こえる。
(誰も見ていないな)
換気用の小窓をわずかに持ち上げ――
猫のように隙間から身を滑り込ませた。
中は、薄暗い倉庫のような空間だった。
雑に打ち付けられた板で二階部分だけ増築されており、足場は不安定だった。
窓のすぐ内側に、細い梁が通っている。
ディアンはそこへ片足を乗せ、音を立てないよう慎重に体重を移した。
下には、一階へ続く吹き抜けと、縄梯子。
その周囲を、男たちが怒鳴りながら駆け回っている。
「どうなってんだ!」
「誰が垂れ流しやがった!」
「おい、裏口から出ろ!」
「だめだ! 裏口は金髪の聖騎士がいやがる!」
――金髪?
ディアンの全身がゾワリと総毛立った。
梁を移動していた足がぐらつき、慌てて柱にしがみつく。
下では、男が杯らしき包みを抱えたまま怒鳴っていた。
「クソッ、じゃあ上だ! 屋根から逃げるぞ!」
縄梯子が揺れ、ギシリ、ギシリと音を立てる。
ディアンは梁の上で身体を小さく丸めて、男が登り切る瞬間を待った。
男の手が、二階の床につく。
(――今だ!)
ディアンは飛び降り、
男を蹴り落とすと同時に、手から杯の袋を奪い取った。
ドタドタン!
と大きな音を立てて、落ちた男が下で伸びている。
他の男が、後ずさりながら、半狂乱になって騒いでいた。
「や、やめろっ! こっちに来るな!」
目の端に、淡い金髪が映った。
「――っ!」
ディアンは反射的に身を翻し、高く積み上がった箱を足場にして、梁に登る。
入ってきた小窓に手をかけ、
つっかえながら、身体を外に出した。
どこでもいいから、逃げないと――。
建物の屋上へ足をついたディアンは、
道に降りれずに、そのまま屋上を伝って走った。
細い路地で区切られた屋根をいくつも飛び越える。
ちらり。
下の道で白い制服が、細い通路で翻った。
どきん、どきんと心臓が波打つ。
いつもこうだ。
いつもいつも、盗んだあとにうまく逃げられない。
ディアンは、袋を握る手に力を込めた。
悪魔の召喚なんて、どうでもいい。
けど、これがないと困るなら、盗みがいがあるってものだ。
「――止まってください」
後ろから、聞き覚えのある、いやに落ち着いた声がした。
屋上の切れ目。
息を荒くしたディアンは、飛び越え先を見失って建物の端に寄った。
夜風が、火照って汗ばんだ肌を撫でていく。
月明かりを背に立つ聖騎士を見て、思わず目を細める。
――眩しい。
いや。
違うだろ。
ディアンは、唇を噛んで睨み据えた。
目が合った瞬間、クレディスが――わずかに息を詰まらせる。
「……なぜ、あなたがここにいるのですか?」
「……」
それはこっちのセリフだよ。
ディアンは舌打ちをしてクレディスの腰に差してある剣を見つめた。
――あれは、盗めねぇ。
隙がなさすぎる。
クレディスが掌を上に向けて伸ばす。
「その袋をこちらに」
ディアンは、杯を胸に抱き直し、ちらりと建物の下を覗き見た。
配管を伝って降りるしか――。
チカ、と青白い光に目を吸い寄せられた。
月明かりに照らされた剣が、冷たく光る。
ぶわ、
と汗が吹き出るのに、心臓が凍りつく。
クレディスが一歩踏み出すだけで――ディアンの足が勝手に後ろに引いた。
踵が宙に浮く。
だめだ――勝てない。
額の汗が目に入り、視界が滲んだ。
「お前さ――」
ディアンは、声が震えないように喉に力を入れた。
「これが何に使われるのか、知ってんの?」
「……関係ありません」
「そうやってまた、意味もわからずに仕事すんのかよ」
クレディスの剣先が、わずかに下がった。
紫色の目に、何かが過ぎる。
でも、それは一瞬だった。
「……それでも、私は」
クレディスは、そこで言葉を止めた。
息を、深く吸う。
(――来る!)
ヒュッ、
と風を切る音。
反射的に身を投げた——その刹那。
抱えていた袋が、すっぱりと切り裂かれた。
中の杯が宙に舞う。
でも――
痛く……ない……?
クレディスの剣は、袋だけを正確に断っていた。
落ちていく視界の端で、クレディスが舞い落ちる杯を片手で受け止めるのが見えた。
洗濯物のかかったロープを掴んだ頃には、クレディスの姿はなくなっていた。
地上に降りたつ。
街灯の影に身を滑り込ませ、その場を後にする。
走り続けていると、じわり、視界が歪んで、息も上がってきた。
ちくしょう……ちくしょう……。
唇を噛む。
奪ったものを奪われるのが、こんなに悔しいなんて――
いや、違う。
(なにも、できなかった……)
逃げることしか。
――情けねぇ……。
壁に手を付き、荒い呼吸のたびに沁みる胸の痛みを逃がして、地面を睨む。
このままじゃ、いられない。
絶対、見返してやる――。
丸まった背中のまま、壁に沿って歩き出した。
三日月に照らされた酒場が見えた。
その裏口が動き、一つの細身の影が出てきた。
咄嗟に隠れたディアンに気づかず、影は、平民街に消えてゆく。
(どこに行くんだろう?)
――ラウジ。




