ゆく河の流れは絶えずして
「――成功した……ついに成功したぞ――」
幾度となく聞いた言葉。大理石の床と輝きの薄れていく魔法陣。奇妙な格好――黒いローブ、白いローブ、鋼の甲冑――をした三人衆。俺を取り囲む巨大な柱。星と月の浮かぶ夜空。
なるほどなるほど。これはあれか。そういうことか。つまり――
「そっちが夢かぁぁぁーーーっ!」
俺の痛切な叫びに、ビクッと前方の三人が震えた。
思えば、ヨルに召喚されてからこっち、俺は一度も寝ていなかった。肉体的には召喚の度にリセットされているから疲労は溜まらないはずだが、おそらく数千に及ぶループの精神的ストレスが蓄積していたのだろう。そこにヨルから告げられた『元の世界に帰れない』という衝撃の新事実がトドメとなって、疲弊しきった俺は気を失ってしまった。それから隕石が落ちるまでのわずか数分の間に、あのような夢を見てしまったわけだ。
学校、授業、友人――今やどれも遠い昔の話に思えてしまう。あの頃の日常の風景が随分と懐かしく感じる。もう戻れないと知ってしまっただけに、余計に恋しい。
「あの、顔色が悪いようですが」ペオルが駆け寄って声をかけてくる。「大丈夫ですか、勇者さま?」
ラートとヨルも警戒しつつ、こちらに近付いてくる――しまった。この場から逃げるタイミングを逸した。仕方ない、今回はとりあえず平和路線で行くか……。
「……あ、ああ、大したことはない。ただの召喚酔いだ。酔い止め薬を持ってきてくれないか、ペオル。俺たちは先にラガハマ将軍の官邸に行ってるから」
「えっ? あっ、はい……あれ、なんで私の名前を??」
困惑するペオルを無視して、俺はヨルに話しかける。
「〈遡りの外法〉は成功だ、ヨル。間もなく敵が恐ろしい作戦を仕掛けてくる。皆の命に関わることだ、早急にラガハマ将軍に伝えなければ。今すぐ会いに行くぞ」
――というわけで、後はいつもの繰り返し。俺はヨルとラートに挟まれて神殿の階段を降りていく。いつものように、広場を過ぎたあたりでペオルが走って酔い止め薬を持ってきてくれる。
「勇者さま! お薬を持ってきました」
「おう、サンキュ」と、俺はそれを受け取って一気に飲み干す。
何度飲んでもドクターペッパーの味である。
「わぁ、豪快な飲みっぷり。さすが勇者さま」と、エルフの少女が手を叩く。
「……ハァ……」片手に握った薬の空き瓶を眺め、俺はため息をつく。
かつては癒やしだったペオルとの他愛ない会話も、録画したビデオをリピート再生しているようで、だんだんと虚しさの方が募ってきた。
「ゆく河の流れは絶えずして……か」
俺は夢のなかに出てきた〈方丈記〉の一節を呟いた。
川の流れは途絶えることなく続いているように見えるが、実は常に新しい水が上流から供給されている。それと同じように、毎日似たようなことを繰り返す日常でも、実は不変でいられるものなどない。時間の流れは必ずすべてを変えていく――という諸行無常を説いている。
しかし、俺の場合、エッシャーの騙し絵のように、時間という川の流れ自体がループしてしまっている。俺がいる川は、本当に同じ水が流れ続けているのだ。方丈記の喩えとは真逆だ。だけど、変わるものがまったくないというのも、それはそれで虚しい……何も変えられない繰り返しの中で生きていくなら、始めから死んでいるのと同じじゃないか。っていうか、実際に毎回死んでいるんだが……。
「……河の流れ……」そのとき、俺の頭にひとつのアイデアが舞い降りた。「いや……そうか……!」
「どうされました、勇者さま?」独り言をぶつぶつ呟く俺を、心配そうにペオルが覗き込む。
「善は急げ、だ」俺は後ろを振り向く。「ラート、これ持って」と言って、ラートに薬の空き瓶を放り投げた。
「なんだ急に……」ラートは斧槍を両手から片手に持ち替え、空き瓶をキャッチする――その瞬間、俺は身を低くしてラートにタックルし、同時に腰の鞘から短剣を奪う。「きっ、貴様!」
ラートはバランスを崩して倒れこみ、斧槍も音を立てて地面に転がる。俺はさらに斧槍を遠くへ蹴飛ばし、来た道を戻るように三人から逃げ去っていった。近場の路地裏へと逃げ込み、枝分かれする小道をジグザグに進んでいく。
神殿の裏手にある林へと出た。林を抜けた先には、城壁の上の回廊へと続く階段がある。それを見上げながら、ひとまず俺は木々の間に身を隠した。
乗馬の練習をしている間に、砦の中の細かい道や、警備が薄い場所を把握しておいたのだ。追いかけてくる足音と甲冑の金属がこすれ合う音が聞こえてきたが、案の定、俺のいる場所に近付いていくる様子はない。
木陰でじっと息を潜めながら、俺は何度も時計を確認する。
〈21:27〉――〈21:28〉――〈21:29〉――轟音とともに、空が赤みを帯び始めた。よし、今だ。
俺は林から飛び出して城壁の階段を登った。見張りの兵士が俺を見つけ、なにか叫びながら剣を引き抜いた。俺は兵士に短剣を投擲し、そいつが怯んだ間に壁をよじ登って外の水堀に飛び込んだ。
――ボチャン
冷たい水が俺の身体を包み込む。
原爆投下の後も、川底の魚が生きていたという話を聞いたことがある――現代文の授業だ。
水素結合の存在のため、水は他の液体よりも気化熱が大きいと聞いたことがある――化学の授業だ。
水は、爆発がもたらすあらゆる脅威――熱、爆風、衝撃波――から守ってくれる、自然の防護壁だ。しかも川ならば、たとえ水の一部が蒸発したところで、上流から新たに水が供給され続ける――いわば再生する防護壁だ。川から水を引いている堀も、同様のことが言えるだろう。
簡単なことだったのだ! 十分な量の水の中にさえいれば、俺は安全圏にいられる――十分な量の水の中にさえいれば。
この水堀は、俺の腰ほどの深さしかなかった。隕石の爆発とともに、堀の水はすべて干上がった。爆風で城壁が崩れた。俺は瓦礫の下敷きになって死んだ。
薄れ行く意識の中、方向性は間違ってないぞ、と自分に言い聞かせた。
〈21:30〉




