甘く見ていた
砦の中で乗馬練習を計三時間ほど行った後、俺は覚悟を決め、馬をツェンテル門へと走らせた。カンテラを低めに持ち、顔を見られないように俯く。
「おーい、さっきの不審者はどうした?」
門衛が俺の姿を認め、声をかけてきた。
「間諜だ!」俺は門衛から顔を背け、あべこべの方向に指をさした。「壁を越えて逃げやがった!」
「なに!」
「俺は後を追う! そこをどけ!」
言いながら拍車をかけ、馬を加速させた。
「うわ、ちょっと」間一髪で門衛が馬を避ける。「なんかお前、声が違……?」
「じゃ!」
「お、おい待て! 何もお前が行くことはない! 将軍への報告がまだだろ!」
背後で何やら門衛が叫んでいるが、もう遅い。
俺は砦の外堀に架けられた跳ね橋を渡り、ついに外の世界へと繰り出した。
〈21:24〉
作戦会議室で見た布陣図を思い返す。
魔王軍は、マィアウリス要塞の北東と北西の二方面から攻めてきている。対する連合軍の数は半分ほどで、ほぼ半包囲されている形になっていた。砦の背後に控える街を守るため、みんな必死で戦っていることだろう。数分後に隕石が落ちてきて、その努力が無駄になるとも知らずに……。
少し可哀想な気もするが、ま、結局は他所の国の人のことだ。無関係な戦場に召喚された俺のほうが可哀想だと思う。自分の命がいちばん大事です。
とっとと逃げよう。
方向は南一択だ。北に逃げて、戦闘に巻き込まれるのは論外。はぐれた魔物が俺を襲うってこともありえそうだしな。
布陣図を信じるなら、南に魔王軍はいない。ただ、まったく不安要素がないわけでもない。南方の街から来たと思しき援軍が、北上している最中なのだ。南に逃げ続けるとすれば、こいつらとかち合うことになる。魔物と遭遇するよりはリスクは低いだろうが、何かしら手を考えなければ。
勢いに任せてすれ違うか?
物陰に隠れてやり過ごすか?
正直に話して保護してもらうか?
うーん。
細かいことは、実際に部隊と遭遇したときに考えればいいか。
ツェンテル門は北西を向いていたので、俺は砦の周囲をぐるりと半周し、馬に南向きの斜面を下らせた(本当は南の門から出たほうが速いけど、途中の官邸あたりに兵士がわんさかいるので怖いのだ)。
そこで俺ははたと気付いた。
俺が乗馬の練習をしていたのは、ずっと砦内の舗装された地面の上だった。舗装されてない道を、それも岩石がごろごろ転がった斜面を馬で走る練習はしていない。経験したことのない縦揺れに驚き、俺は手綱を一瞬手離してしまった。
そのとき、ひときわ大きな岩が道の真ん中に現れ、馬がそれを越えるべく跳躍した。振り落とされないように、俺は慌てて馬の首にしがみつく。着地した瞬間、衝撃で俺の下半身が鞍からずり落ちた。視界が、馬の首を支点に、ぐるりと回った。
気づけば俺は地面に叩きつけられ、栗毛の腹が頭上を覆っていた。馬の脚が革鎧越しに俺の胸を踏みつけ、
――ボキッ!
と鈍い音が体内に響いた。
肺に骨が刺さったのか、息を吸うことも吐くこともできない。赤い液体だけが口から溢れてくる。
薄れ行く意識のなか、俺は走り去っていく馬を睨むことしかできなかった。
〈21:25〉
――結局、俺が障害競走に出れるほどの腕になるまで、馬に六回殺された。
馬がとても危険な生き物だということを、身を以って知った。実家の犬に似てるのは栗毛と白い尻尾だけ。重さも大きさも十倍以上ある筋肉の塊だ。甘く見てはいけない。
ポジティブ・シンキングの弊害として、俺は物事を甘く見すぎる傾向があるようだ。
……そう、俺が甘く見ていたと痛感したものは、もうひとつあった。
隕石の威力である。
「援軍の部隊と遭遇したらどうしよっかなー?」などという心配は杞憂だった。
何度も何度も馬を使って南の草原を走らせたが、どんなに速く、どんなに遠くまで到達できたときでも、部隊と直接遭遇することはなかった。
彼方の闇に、部隊らしき灯りの群れが見えた――と思った頃には、空から赤く輝くものが轟音と共にやって来て、地上の夜は振り払われる。
身を焦がす熱線。
火の海と化す野原。
首をもぎ取る衝撃波。
薙ぎ倒される木々。
銃弾のように飛来する無数の礫。
爆風で馬と一緒に吹っ飛ばされた数秒後、吹き戻しがやって来て、再び身体がボロ布のように宙を舞う。
砦にいたときのように一瞬で死ねるのは、まだ幸せだったと気付いた。砦の外では、運悪く最初の一瞬を生き延びてしまうことがある。そうすると、肺が破裂し、内臓が口から飛び出た状態で、数分間もがき苦しむことになる。
火球がキノコ雲となって空を上昇し、夕焼けのように辺りを赤く染める。
耳鳴りが収まったとき、部隊のいた方向から無数の呻き声が聞こえることに気付く。そこには、かつて人間だったものの群れが、手足のもがれた黒蟻のように地面を蠢いていた。
この隕石の威力――おそらく、10分間フルに馬を走らせたとしても、被害の及ばない地帯まで逃げきることは不可能だ。
俺はそう悟った。




