第2章 高原のオタク、「白い黄金」を追え
濃い煙の匂いと、焼けた猪の脂の香りが、あたり一面に漂っていた。賑わいに沸くドンバン村。焚き火の炎が、思いきり祝宴を楽しむ九十人あまりの村人たちの顔に、きらきらと照り返している。
アティウスは低い丸太に腰かけ、膝を抱えていた。目の前の大騒ぎを眺める胸には、喜びと、言いようのないもどかしさが入り混じっている。
喜びは単純だ。昨日、巨大な黒牙イノシシとの死闘を乗り越え、村人たちが腹いっぱい食べられるようになったこと。山のような肉が、痩せ細った暮らしに命を吹き込んでいる。だが、喉に引っかかって唾も飲み込めないほどのもどかしさ。それは……味のことだった!
前世で、アティウスがどうしても思い出せなかったのは、自分の昔の名前だった。それなのに、昔の暮らしの光景だけは、驚くほど鮮明に覚えている。純粋な田舎のイサーンの子だった彼は、朝早くから何キロも裸足で学校に通い、土日は家族の畑仕事や田んぼ仕事を手伝った。からからに乾いた地面を掘って、「ヤエ」(地中に巣穴を掘るトカゲ)や「ジーポーム」(土の中の虫)を捕まえては食べる、素朴な村暮らしだ。けれど、そんな日々の中で、少年が毎日わくわくしながら待ちわびていたのは、それではなかった。夕方やニュースの後にテレビで放送される、日本のアニメだったのだ。
休みの日でも、テレビを思う存分見られるわけではなかった。村の子どもたちの大半は、人数の多いタイの昔話ファンタジー劇に夢中で、取り合いになる。少数派の彼は、その争奪戦に勝てなかった。それでも彼は粘り強く、どうにかして漫画を手に入れては読みふけった。
やがて成長すると、その風変わりな趣味のせいで、周りから「高原のオタク」というあだ名をつけられた。アニメ、漫画、ゲーム、日本の音楽への常軌を逸した熱狂は、前世の彼を形づくる唯一無二の個性となった。そして、イサーン人の暮らしから受け継ぎ、この新しい世界にまで持ち越したものが、もうひとつある。食べ物の味に対して、極限まで敏感な鼻と舌だ。
今、アティウスの目に映っているのは、村人たちが輪になって、巨大な猪の生肉を分厚く切り分け、そのまま焚き火に放り込んでいく光景だった。下味も、漬け込みも、味付けもいっさいない。付け合わせといえば、周辺からかき集めた、甘みと渋みとほんのりした酸味のある野草。それに、噛むと歯が痛くなるほど硬い、粗い穀物の煮物。それを、焼きたての猪肉と一緒に、頬張っているのだ……。
そうだ! 調味料だ! この村には、調味料という概念そのものがほとんどない。塩味もない。辛味もない。プララー(発酵魚醤)もない。そして何より致命的なのは、塩さえないことだった!
「こんなの、栄養以前に食の大惨事だ!」
アティウスは、心の中で嘆き、ひとり抗議の声を上げた。
味の蛮行をこれ以上見ていられなくなり、小さな体が立ち上がった。向かった先は、村長である父、トゥイスのところだ。中年のたくましい男は、小さな青銅のナイフを使い、ほかの村人たちとともに、山のような肉を切り分けるのに没頭している。アティウスはしばらく背伸びして様子をうかがっていたが、やがて、胸につかえていた疑問を、うっかり口にしてしまった。
「父さん……僕たち、『塩』って、まったく持ってないの?」
その瞬間、青銅のナイフを持つトゥイスの手が、ぴたりと止まった。屈強な男は、ばっと振り向いて息子を見る。目は大きく見開かれ、顔からは血の気が引いていた。そして、低く鋭い声で問い返した。
「お前、塩を、どうして知っている!?」
父の詰問と、動揺を隠せない表情に、アティウスは全身を跳ねさせた。心臓がずしんと落ち、戦場のように激しく打ち始める。
(しまった!)
彼は内心で焦った。外の世界から切り離された、この辺境の村では、「塩」と呼ばれるものを知る者はほとんどいない。それはただの食べ物ではない。貴重で、手に入りにくく、危険に満ちたものだからだ。だからこそ、数々の修羅場をくぐってきた村長のトゥイスが、まるで禁句でも聞いたかのような反応を示したのである。
アティウスは父の鋭い視線から慌てて目をそらした。うつむき、あらぬ方を見ながら、不自然さをごまかそうと、もごもごと小さな声で答える。
「僕……どこかで、こっそり聞いたことがあるんだ。どこでだったか、もう覚えてないけど……ずっと昔のことで……」
トゥイスはしばらく、黙って息子を見つめていた。それから、ゆっくりと青銅のナイフを下ろす。その眼差しは、今まで見たことがないほど厳しく、真剣なものに変わっていた。彼は顔を近づけ、低くかすれた声で警告した。
「二度と、それを口にするな、アティウス……あれは、お前のような子どもが理解するには、危険すぎるものだ。余計なものを背負い込むんじゃない」
言い終えると、村長は背を向け、巨大な猪肉に向き直って、再びナイフを動かし始めた。だが、彼の周りのくつろいだ空気は消えうせ、代わりに、うっすらとした緊張感が漂っていた。
アティウスはその場に立ちつくしたまま動かなかった。元オタクの理詰めの頭脳が、状況を場面ごとに素早く回転させ、分析し始める。
(父さんがこれほど驚いて怯えるなら、この辺りは海から遠く離れていて、海の塩なんて絶対に手に入らないってことだ)
海という選択肢を除くと、前世で熱中していた漫画やドキュメンタリー、戦略ゲームの知識が、頭の中にぱっと浮かんだ。川に挟まれた半砂漠の地形で、条件を満たすものといえば、ただひとつ――岩塩だ。
岩塩とは、地下に自然に存在する塩のことである。最新の掘削技術がない世界では、この塩化ナトリウム(NaCl)の鉱床は、深い森の中の獣たちの舐め場や、白い土の原野に現れる。そして自然界の真理がある。野生動物の多くは、こうした塩の場所を熟知していて、命がけで長い道のりを旅して集まり、体に欠かせないミネラルを舐めるのだ。そして、獲物の動物が一か所に密集すれば、食物連鎖の頂点に立つ捕食者もまた、それを知っている。奴らは必ず、塩場の周りに潜み、獲物を狙って待ち伏せしているのだ。
(なるほど……だから父さんは、危険だって言ったんだ)
アティウスは心の中でつぶやいた。新しい世界の現実が、はっきりと見えてくる。塩は単なる調味料ではない。生と死が交わる場所なのだ。
「でも、どんなに危険だって……俺は、やっぱり欲しい!」
少年は唇をきつく噛んだ。子どもらしい好奇心の色は消え、生存本能と計画を立てる思考が、勢いよく巡り始める。この世界の彼には、神がかったチートアイテムはない。異世界漫画の主人公のように、山を吹き飛ばして小屋を焼き払うような、派手な魔法の力もない。それでも、ここは彼が生き延びなければならない場所だ。腹いっぱい食べ、この村を発展させ、飢えから救わなければならない。そして「塩」こそが、彼が手に入れなければならない、最初の鍵なのだ。
「塩が欲しいなら……まず必要なのは『武器』だ……」
*
その夜更け。虫の音がかすかに闇に響くだけの静寂の中、アティウスは片隅にひとり座っていた。乾いた枝を手に、地面に何かを真剣に描きつけている。地面に現れた線は、神聖な魔法陣の断片などではなかった。前世のイサーンの民間の知恵と、戦略ゲームで覚えたシンプルな物理の仕組みを組み合わせた、「武器」と「罠」の設計図だった。
もし深い森の奥に、血に飢えた捕食者が本当に潜んでいるのなら、彼は決して美味しい獲物にはならない。それどころか、自分が「自然を知り尽くした狩人」になってやるのだ。
冷たい夜風が、少年の痩せた体を吹き抜けていく。アティウスは顔を上げ、頭上に広がる、瞬く星々の空を見つめた。前の世界とはまるで違う、見慣れない星。
(前の世界では、俺はただの『高原のオタク』――周りから浮いた、変わり者だった。でも、この世界で文明をゼロから作り直さなきゃならないっていうなら、まずは、最高に美味くて、満たされた食事から始めてやる!)
*
だが、そこからほど近い、村の薄暗い片隅で。アティウスには知る由もなかった。昨夜、偶然に手に取って触れた、あの漆黒の石板が、闇の中でかすかに震えていることを。まるで、少年の胸の中で膨らみはじめた渇望と、大きな野心に呼応するかのように。静かに、そして確かに。
翻訳ノート(ご確認いただきたい点)
項目訳の選択理由
一人称の使い分け父母への発言は「僕」、内心の独白は「俺」七歳の外見と、元オタクの大人の中身という二重性を表現するため。ラノベの転生主人公の定番手法です
祈祷師の口調「わし」「〜じゃ」「おんし」原文の「เอ็ง」(目下への粗野な二人称)と老人の威厳を、古風な老人語で再現しました
方言の扱い標準語ベースこの2章は物語の導入で、雰囲気と緊張感を優先しました。イサーン色が強い掛け合いが出てきた段階で、東北弁などを部分的に採用する方針が合います。ご希望があればこの章にも適用できます
ドンバン村「隠れ森の村」と「ドンバン村」を併記原文で、主人公が前世の癖で現地名を口走る描写があるため、その仕掛けを残しました
アスカ王国「อัสกา」をカタカナ表記日本人名の「飛鳥」と連想が重なる点が気になる場合は、「アスカー」などに変更できます
ヤエ/ジーポーム/プララー音訳+短い説明地方の食文化を、物語の流れを止めずに伝えるためです
チャクチャク・ウォンウォン音訳+「タイの昔話ファンタジー劇」日本の読者に分かりやすいよう補足しました
脂の湯「肉の脂を煮出した湯」原文の「น้ำต้มไขมัน」を、地面が滑る理由が伝わるよう具体化しました
化学式「NaCl」を通常の文字で表記原文の数式記号は、日本語の縦横どちらの組版でも読みやすいよう整えました
確認したい点
人名表記: トゥイス、アティウスの表記でよいか、ご確認ください。第0章では「アーティアス」の揺れがありました
文体: 地の文を、もう少し軽い「なろう系」のテンポ(短い段落)に寄せることもできます。現在は、原文の濃い描写を活かした、やや文芸寄りの調子です
続きの章もお送りいただければ、同じ表記ルールで統一して訳します。




