第十四話
その日の夜、私は旦那様の部屋を訪ねることになりました。
なんて緊張するのかしら…。
『夜にお誘いだなんて、心配無用だったみたいですね』
『旦那様、頬を赤らめておりましたもの』
岬さんの言葉が反芻し、心臓がどくんどくんと高鳴ります。
「入れ」
「失礼いたします」
馨さまのお部屋に足を踏み入れたのは初めてではありません。
何度もお部屋の掃除をしております。ぎっしりと本が詰まったオーク材の本棚。この時期は出番のない暖炉。床には絨毯が敷かれている書斎兼寝室です。
綿の浴衣姿の馨さまは、書斎の奥にある寝室のベッドに腰をおろしていました。
「どうなさいましたか?」
「こちらへ座れ」
ベッドに座るよう指示をされて、私の頬が熱を帯びだしました。
蔵で育ち、学校に通ったこともない私ですが、結婚した夫婦が何をするかくらいは母や瑠璃子のおさがりの小説を読んだことで知っています。先日岬さんにも言われましたしね。
しかし、馨さま。こういうことは心の準備というものが必要なんですよ!
「失礼いたします」
「手を貸してくれ?」
「手…?」
ベッドに腰を下ろした私は、浴衣の袖を捲し上げました。
あかぎれがひどい、骨ばった腕。
それを見たら、急に熱が冷めたように、冷静になりました。
使用人として働いてきて、手入れもしてこなかったぼろぼろの身体。
それを馨さまに見られることが、知られることが、恥ずかしく、思わず目を背けます。
しかし、私の冷えきった手を馨さまの手がそっと覆ったのです。
「少し沁みるかもしれない」
目を開けると、私のあかぎれの手に、馨さまが軟膏を塗ってくれているではありませんか。
信じられない出来事でした。
「…っ!」
「沁みたか?」
「いいえ」
こんな私の小さな傷を気遣ってくれるなんて。部屋に入る時とは違う形で胸が高鳴りました。
「毎晩塗るとよくなるそうだ。身支度が終わったら部屋にこい」
「毎晩塗ってくださるんですか?」
「嫌なのか」
「いいえ、ご迷惑かと思って」
「迷惑じゃない。あと、そうだ」
「はい?」
「上官に身だしなみを褒められた。お前のおかげだ」
「そんなことがあったのですね」
驚きました。『君に求めることは何もない』と言われた身です。
やってきたことがお節介ではなかったんだと思うと、こみあげてくるものがあります。
「弁当もおいしかった。ありがとう」
そういった馨さまは目を僅かに細めて、微笑みました。
元から整ったお顔立ち。なんて美しいのかしらと、うっとりしてしまいました。
「明日からも頑張りますね」
思わず目じりが下がり、口角があがります。こんな風に笑ったことが今まであったでしょうか。
すると、馨さまが私の色眼鏡をそっと外したのです。
「あ、あの……いいんですか」
「そんな風に笑うんだな、と思って」
白眼を見るのが嫌ではない、ということでしょうか。
「家の中では、お前のままでいい」
「は……はい」
心の中に優しくて温かな風が吹き込んできました。
それは、これまでの人生で一度も経験することのなかった『幸せ』の瞬間でした。




